04/09~/15のブログ拍手ランキングfです!
【雑談】本拠地移動と領地の拡大などについて 10
多々良浜の戦いにおける毛利軍の撤退について 9
ハナ筋マカル、ロクニ付ナヲスヘシ 8
厳島社に元就より病気回復の願書を納めさせ 7
「夏蔭城」 6
清州会議後の情勢と丹羽長秀 5
佐久間軍記の三方ヶ原の戦いの模様 4
島村弾正左衛門、蟹となる説 4
【雑談】”三本の矢”の逸話について 4
武田信玄は曾我時致が再生といふ説 4
豊前陣撤退から毛利隆元の死去まで 4
【雑談】信長と”天下”の関わりについて 3
今週の1位はこちら!【雑談】本拠地移動と領地の拡大などについてです!
戦国大名の中には、本拠地を動かす勢力と、ほぼ動かない勢力が有り、一般的には前者を活動的で先取敵、後者を
往々にして保守的で退嬰的と捉えがちで、創作物などでも戦国大名を、そのような形で「キャラクター分け」しているものも
少なくないと思います。ただ、個人的には一概にそういった話ではなく、結局はそれぞれの大名の置かれた環境と必要性の問題に
過ぎない、とも考えています。そもそも戦国大名の本拠地というものは、概ねその直接に影響力のおよぶ勢力圏の中央辺りに
もって来るものでして、これは当然のことですが、それが一番各地域と連絡が取りやすいからです。織田信長などは断続的に
本拠を変更した代表的な戦国大名とされますが、その位置を見ると、やはりその時その時の勢力圏の中央あたりに
本拠を据えていることが解ると思います。そういった部分が「必要」であり、もう一つの「環境」について言えば、例えば北条氏は
韮山から小田原に本拠を移して以降、結果的に本拠を動かさなかったわけですが、これはやはり、相模、南武蔵を制した時点から
勢力拡大の停滞が起こり、むしろ駿河、甲斐、越後、或いは房総などからの防衛が必要な状況となった、という面が大きいと
思います。このような状況は結局武田の滅亡、或いは天正壬午の乱まで続いたわけで、それに対処するには小田原で非合理な
事は無かった、と言えるでしょう。
近世の大名家、藩の首府とちがい、戦国大名の本拠地は、それぞれにその存在意義が違っていたりもします。そのような面を
考えながら、歴史を眺めてみるのもまた面白いと思います。
2位はこちら!多々良浜の戦いにおける毛利軍の撤退についてです!
大内輝弘の乱の勃発のため、筑前立花城を撤退する毛利勢のお話ですが、色々なドラマが見られるおはなしですね。
この撤退の殿をするのが、毛利元就の聟で有力親族である宍戸隆家であり、それを将として指示するのが毛利隆元で、
また同時に桂、浦、坂、といった有力な家臣を残すことでこの地の親毛利勢力へのある種の責任を取ること、
そして更に、大友方がこの3人の命を助け、警備までして送り返したこと、これらからは本当に色々なことが読み取れると
思います。そういった事に思いを馳せてみるのも、歴史の大きな楽しみだなと思っています。
今週管理人が気になった逸話はこちら!佐久間軍記の三方ヶ原の戦いの模様です!
佐久間軍記は、タイトルからも解るように佐久間家を称揚、或いは弁護する傾向を持つ軍記です。そして三方ヶ原での
佐久間信盛の行動は、後に信長の『佐久間信盛折檻状』の中でも取り上げられているほど、かなり否定的に捕らえられています。
信長の言い分を見る限り、「自分の身内には討死を一人も出さず、同じく派遣された平手汎秀を見殺しにした」ですから。
しかしこちらでは、「信玄の軍が予め大軍で佐久間軍を牽制していた」こと、また家康とともに浜松城を堅く防衛し信玄に手出し
させ無かったことなど、佐久間側の言い分が描かれていますね。このあたりも、おそらく佐久間の主観から見れば、一面の
真実であったのでしょう。この描写から、佐久間信盛と信長の認識の齟齬を考えてみる、という事もなかなか興味深いことじゃ
ないかな、なんて思います。
一方の評価だけでなく、評価された側の認識も知ることは、何であっても大切なことだなと感じます。
今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/
【雑談】本拠地移動と領地の拡大などについて 10
多々良浜の戦いにおける毛利軍の撤退について 9
ハナ筋マカル、ロクニ付ナヲスヘシ 8
厳島社に元就より病気回復の願書を納めさせ 7
「夏蔭城」 6
清州会議後の情勢と丹羽長秀 5
佐久間軍記の三方ヶ原の戦いの模様 4
島村弾正左衛門、蟹となる説 4
【雑談】”三本の矢”の逸話について 4
武田信玄は曾我時致が再生といふ説 4
豊前陣撤退から毛利隆元の死去まで 4
【雑談】信長と”天下”の関わりについて 3
今週の1位はこちら!【雑談】本拠地移動と領地の拡大などについてです!
戦国大名の中には、本拠地を動かす勢力と、ほぼ動かない勢力が有り、一般的には前者を活動的で先取敵、後者を
往々にして保守的で退嬰的と捉えがちで、創作物などでも戦国大名を、そのような形で「キャラクター分け」しているものも
少なくないと思います。ただ、個人的には一概にそういった話ではなく、結局はそれぞれの大名の置かれた環境と必要性の問題に
過ぎない、とも考えています。そもそも戦国大名の本拠地というものは、概ねその直接に影響力のおよぶ勢力圏の中央辺りに
もって来るものでして、これは当然のことですが、それが一番各地域と連絡が取りやすいからです。織田信長などは断続的に
本拠を変更した代表的な戦国大名とされますが、その位置を見ると、やはりその時その時の勢力圏の中央あたりに
本拠を据えていることが解ると思います。そういった部分が「必要」であり、もう一つの「環境」について言えば、例えば北条氏は
韮山から小田原に本拠を移して以降、結果的に本拠を動かさなかったわけですが、これはやはり、相模、南武蔵を制した時点から
勢力拡大の停滞が起こり、むしろ駿河、甲斐、越後、或いは房総などからの防衛が必要な状況となった、という面が大きいと
思います。このような状況は結局武田の滅亡、或いは天正壬午の乱まで続いたわけで、それに対処するには小田原で非合理な
事は無かった、と言えるでしょう。
近世の大名家、藩の首府とちがい、戦国大名の本拠地は、それぞれにその存在意義が違っていたりもします。そのような面を
考えながら、歴史を眺めてみるのもまた面白いと思います。
2位はこちら!多々良浜の戦いにおける毛利軍の撤退についてです!
大内輝弘の乱の勃発のため、筑前立花城を撤退する毛利勢のお話ですが、色々なドラマが見られるおはなしですね。
この撤退の殿をするのが、毛利元就の聟で有力親族である宍戸隆家であり、それを将として指示するのが毛利隆元で、
また同時に桂、浦、坂、といった有力な家臣を残すことでこの地の親毛利勢力へのある種の責任を取ること、
そして更に、大友方がこの3人の命を助け、警備までして送り返したこと、これらからは本当に色々なことが読み取れると
思います。そういった事に思いを馳せてみるのも、歴史の大きな楽しみだなと思っています。
今週管理人が気になった逸話はこちら!佐久間軍記の三方ヶ原の戦いの模様です!
佐久間軍記は、タイトルからも解るように佐久間家を称揚、或いは弁護する傾向を持つ軍記です。そして三方ヶ原での
佐久間信盛の行動は、後に信長の『佐久間信盛折檻状』の中でも取り上げられているほど、かなり否定的に捕らえられています。
信長の言い分を見る限り、「自分の身内には討死を一人も出さず、同じく派遣された平手汎秀を見殺しにした」ですから。
しかしこちらでは、「信玄の軍が予め大軍で佐久間軍を牽制していた」こと、また家康とともに浜松城を堅く防衛し信玄に手出し
させ無かったことなど、佐久間側の言い分が描かれていますね。このあたりも、おそらく佐久間の主観から見れば、一面の
真実であったのでしょう。この描写から、佐久間信盛と信長の認識の齟齬を考えてみる、という事もなかなか興味深いことじゃ
ないかな、なんて思います。
一方の評価だけでなく、評価された側の認識も知ることは、何であっても大切なことだなと感じます。
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