15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/19(日) 02:48:39.97 ID:/eXYOJJ0
永禄五年、三州一向宗の一揆が起こった時、本多広孝は土井の城に罷り在った。その近辺の、土呂、羽根崎、
岩松、大学、浦部、八面、佐々、木野寺、櫻井、この村々は皆御敵であり、かの土井城はその中にあり、
最も敵に挟まれてその中にあった。広孝は朝夕取り合い、御忠節を仕った。
三州の諸士は、一向宗ではない輩も御敵に罷り成ったが、広孝は「猶々御忠節仕るべき」と申し上げ、
当時九歳になる嫡子を人質として岡崎に差し上げた。権現様(徳川家康)はお悦びに思し召し、この嫡子の
元服を仰せ付けられ、「康」の御字を下され、「彦次郎康重と名乗るように」との上意であった。
さらに御召しの御馬を下された。
『本多越前守利長家之覺書』
やっぱり一向宗以外にも広がった反乱だったのか
永禄五年、三州一向宗の一揆が起こった時、本多広孝は土井の城に罷り在った。その近辺の、土呂、羽根崎、
岩松、大学、浦部、八面、佐々、木野寺、櫻井、この村々は皆御敵であり、かの土井城はその中にあり、
最も敵に挟まれてその中にあった。広孝は朝夕取り合い、御忠節を仕った。
三州の諸士は、一向宗ではない輩も御敵に罷り成ったが、広孝は「猶々御忠節仕るべき」と申し上げ、
当時九歳になる嫡子を人質として岡崎に差し上げた。権現様(徳川家康)はお悦びに思し召し、この嫡子の
元服を仰せ付けられ、「康」の御字を下され、「彦次郎康重と名乗るように」との上意であった。
さらに御召しの御馬を下された。
『本多越前守利長家之覺書』
やっぱり一向宗以外にも広がった反乱だったのか
スポンサーサイト
コメント
人間七七四年 | URL | -
そういや酒井、小笠原、吉良などは一向一揆より早い時期に兵を動かしていて一揆とは無関係に家康に敵対してたと言う説を平野氏が提示してますね
大事件と同時期の出来事は連動してる筈なんだという思い込みは歴史研究にはありがちなので今後の検証が待たれる説だと思う
( 2020年04月19日 20:43 )
人間七七四年 | URL | -
本田広孝はもっと評価されて良いと思う
( 2020年04月19日 21:40 )
人間七七四年 | URL | -
岡崎に封じられたことで、
厚遇と言うか信頼が伺えるかと。
( 2020年04月19日 23:57 )
コメントの投稿