121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/27(月) 01:22:54.76 ID:Av8V7pWR
(応仁の乱での)都鄙の合戦は、山名方が利を得ることが多かったが、数年の在京に力尽くし、
財宝は尽き果て、諸勢悉く困窮した。
その上摂丹両州は細川家の領国であり、また播州は赤松家の旧領であったので、今回赤松政則が
拝領の上意を蒙り、思いのままに国人の心を靡かせ、譜代の輩を招き集め、皆かの家へ帰伏した。
そうなれば、山名方の西陣には、皆分国からの運送の道が絶たれて兵粮の入れ様が無くなり、西陣の
上下は日を逐って労苦した。その上分国の士民たちは一揆を企て、家人国人の中には謀反の者もあらわれ、
先ずそれを退治して重ねてまた攻め上がらんとて、西陣の土岐、一色、その他山名一族の中にも抜け抜けに
下国した。中でも、一方の大将であった斯波左兵衛督義廉も、分国の尾張遠江に土一揆の乱が起こり、
国人たちも騒動したため、先ずその乱を鎮めんとて、急ぎ尾州に下国した。
かつ又、東陣の細川方にも抜け抜けに帰国の人もあり、次第に京勢は手薄と成った。
このような中、同年五月五日、斯波の家老である、越州の朝倉弾正左衛門敏景が、東陣の花の御所の味方に
参った。これは、この日までに公方家より御招きがあり、細川家の取り持ちを以て、斯波治部大輔義敏より
越前国を譲り賜る、という事で味方に参るべき趣きを、約諾したためであった。よって同月二十一日、越前国
守護職拝領の御判を下され、同六月九日、敏景の嫡子、孫次郎氏景に公方家より御剣を賜り、急ぎ父子共に
越前へ下向し彼の国の乱を鎮め、追々北陸の道を切り開いて軍勢の通路、兵粮の運送の妨げが無いように
相計るべし旨を仰せ付けられた。誠に以て、父子共に稀代の面目、無双の公恩であった。
この敏景は、先祖は但州の人で本姓は日下部氏にて、尾張修理太夫高経より、代々斯波家の被官であった。
年来、斯波左衛門督義廉の家老としてかの家の執事の職を勤め、また応仁の乱に於いても武功を顕し、
山名宗全入道の褒賞にも預かった、しかしながら、この主君である義廉は尾張へ下向し、その留守を幸いとして
一方の主筋である斯波義敏に招かれて、御所方と成り、陪臣忽ちに昵近の臣に列して、越国を拝領し、
御敵退治の公命を蒙った。これによって敏景、氏景父子は急ぎ越前に下向すると、先ず義敏の怨敵である
増澤甲斐守祐徳、千福中務丞、二宮左近らを討ち取った、彼等は皆、朝倉敏景の同僚で、斯波義廉の
長臣であったのだが、近年は在国して自立を企て、乱を好む逆徒であった。この者共が滅んだ後は、
越州たちまち平治となり、敏景、氏景は國民を慰撫し、諸士を懐けて政道宜しく、子孫に至るまで
終に越前一国の守護となった。誠に以て名誉の士である。
また、その後西陣では、能州守護の畠山修理太夫義統も徐々に公方家に従い、色々に宥しを以て
御招きになり、かつ又、越前の朝倉が御所方となり彼の国を退治し、また加州は東陣の富樫介政親の
領国であり、このため能州より京陣への通路が絶たれる形となったため、在京叶い難きが故に、終に
義統は東陣へ降参して、公方家の味方と成り、隣邦越中国の乱を鎮めて能越両国の守護たる旨を、
管領の細川勝元が推挙した。これによって畠山義統は面目を施し、これによって北陸の通路は
皆開けて、いよいよ東陣では運送の煩いが無くなり、一方で西陣は日を逐って困窮した。これによって
東陣の味方と成るものも多くなった。
『應仁廣記』
応仁の乱における、朝倉敏景の寝返りなどについて
122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/27(月) 01:37:34.25 ID:yWZx3ewD
優位に進めてた山名でも京都に居座り続ける事がとんでもなく負担だったと
上洛がどんだけデメリットでかい行為なのかって感じだなぁ
123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/27(月) 02:51:43.93 ID:19r+QMWd
かといってキープすることを諦めたらあっという間に謀反人に転落だものな
留まるも地獄、退くも地獄でもう大変
125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/27(月) 19:33:53.07 ID:19r+QMWd
本拠が割と近い山名でこれなら大内とかそらもうえらいことになってそう
時代は下るけど高国なんて西に足向けて寝られんね
126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/28(火) 01:20:34.76 ID:i62avEtC
大内さんは褒美に勘合貿易の許可だけもらったら迅速に帰ったからね
やはり頭の良さが武士じゃない
(応仁の乱での)都鄙の合戦は、山名方が利を得ることが多かったが、数年の在京に力尽くし、
財宝は尽き果て、諸勢悉く困窮した。
その上摂丹両州は細川家の領国であり、また播州は赤松家の旧領であったので、今回赤松政則が
拝領の上意を蒙り、思いのままに国人の心を靡かせ、譜代の輩を招き集め、皆かの家へ帰伏した。
そうなれば、山名方の西陣には、皆分国からの運送の道が絶たれて兵粮の入れ様が無くなり、西陣の
上下は日を逐って労苦した。その上分国の士民たちは一揆を企て、家人国人の中には謀反の者もあらわれ、
先ずそれを退治して重ねてまた攻め上がらんとて、西陣の土岐、一色、その他山名一族の中にも抜け抜けに
下国した。中でも、一方の大将であった斯波左兵衛督義廉も、分国の尾張遠江に土一揆の乱が起こり、
国人たちも騒動したため、先ずその乱を鎮めんとて、急ぎ尾州に下国した。
かつ又、東陣の細川方にも抜け抜けに帰国の人もあり、次第に京勢は手薄と成った。
このような中、同年五月五日、斯波の家老である、越州の朝倉弾正左衛門敏景が、東陣の花の御所の味方に
参った。これは、この日までに公方家より御招きがあり、細川家の取り持ちを以て、斯波治部大輔義敏より
越前国を譲り賜る、という事で味方に参るべき趣きを、約諾したためであった。よって同月二十一日、越前国
守護職拝領の御判を下され、同六月九日、敏景の嫡子、孫次郎氏景に公方家より御剣を賜り、急ぎ父子共に
越前へ下向し彼の国の乱を鎮め、追々北陸の道を切り開いて軍勢の通路、兵粮の運送の妨げが無いように
相計るべし旨を仰せ付けられた。誠に以て、父子共に稀代の面目、無双の公恩であった。
この敏景は、先祖は但州の人で本姓は日下部氏にて、尾張修理太夫高経より、代々斯波家の被官であった。
年来、斯波左衛門督義廉の家老としてかの家の執事の職を勤め、また応仁の乱に於いても武功を顕し、
山名宗全入道の褒賞にも預かった、しかしながら、この主君である義廉は尾張へ下向し、その留守を幸いとして
一方の主筋である斯波義敏に招かれて、御所方と成り、陪臣忽ちに昵近の臣に列して、越国を拝領し、
御敵退治の公命を蒙った。これによって敏景、氏景父子は急ぎ越前に下向すると、先ず義敏の怨敵である
増澤甲斐守祐徳、千福中務丞、二宮左近らを討ち取った、彼等は皆、朝倉敏景の同僚で、斯波義廉の
長臣であったのだが、近年は在国して自立を企て、乱を好む逆徒であった。この者共が滅んだ後は、
越州たちまち平治となり、敏景、氏景は國民を慰撫し、諸士を懐けて政道宜しく、子孫に至るまで
終に越前一国の守護となった。誠に以て名誉の士である。
また、その後西陣では、能州守護の畠山修理太夫義統も徐々に公方家に従い、色々に宥しを以て
御招きになり、かつ又、越前の朝倉が御所方となり彼の国を退治し、また加州は東陣の富樫介政親の
領国であり、このため能州より京陣への通路が絶たれる形となったため、在京叶い難きが故に、終に
義統は東陣へ降参して、公方家の味方と成り、隣邦越中国の乱を鎮めて能越両国の守護たる旨を、
管領の細川勝元が推挙した。これによって畠山義統は面目を施し、これによって北陸の通路は
皆開けて、いよいよ東陣では運送の煩いが無くなり、一方で西陣は日を逐って困窮した。これによって
東陣の味方と成るものも多くなった。
『應仁廣記』
応仁の乱における、朝倉敏景の寝返りなどについて
122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/27(月) 01:37:34.25 ID:yWZx3ewD
優位に進めてた山名でも京都に居座り続ける事がとんでもなく負担だったと
上洛がどんだけデメリットでかい行為なのかって感じだなぁ
123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/27(月) 02:51:43.93 ID:19r+QMWd
かといってキープすることを諦めたらあっという間に謀反人に転落だものな
留まるも地獄、退くも地獄でもう大変
125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/27(月) 19:33:53.07 ID:19r+QMWd
本拠が割と近い山名でこれなら大内とかそらもうえらいことになってそう
時代は下るけど高国なんて西に足向けて寝られんね
126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/28(火) 01:20:34.76 ID:i62avEtC
大内さんは褒美に勘合貿易の許可だけもらったら迅速に帰ったからね
やはり頭の良さが武士じゃない
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コメント
人間七七四年 | URL | -
瀬戸内海は海賊が多かったから、物資の安定供給に日本海側を利用して若狭から京に入れたという事ね。その為に朝倉を西軍に寝返らせた。
で、その見返りに守護代を朝倉家に与えたから、幕府が継承権騒動以外の下克上を、公認させたという、戦国時代の始まりを作った話。
( 2020年04月27日 22:39 )
人間七七四年 | URL | -
朝倉さんは政権取るのが早かったので戦国のときはもうだめだったんだろうなぁ
( 2020年04月28日 01:13 )
人間七七四年 | URL | -
戦国時代は当主の有能無能が勢力伸長にモロに出た時代だから長さはあまり関係ないと思う
そこそこ優秀でも、もっと有能な当主が近隣に生まれたら飲み込まれれてしまう運命
元亀天正になるとそれまでの価値観と違い生まれゆく統一政権に対する認識とかも必要になる
今まではコレで良かったのに…という価値観が急速に無効どころか悪とされる
今の時代から見ると”アホだなぁ”って思っても同時代人は変化に対応するのに精一杯だったと思うよ
( 2020年04月28日 03:28 )
人間七七四年 | URL | -
※3
日本の立憲君主制の幕末維新は、
王を追放して共和制になったフランスやアメリカの内乱(フランス革命や南北戦争)に比べて、
権威だけの王機能によって、混乱の収束が短期間で、被害数も1/10で済んでるというのがあるんだけど。
この応仁以降の、王の機能(天皇&足利将軍)が失墜不在で、完全収束に150年もかかったというのは、戦国時代は性質として共和制の内乱状態に近しいと思うね。
頂点になる者を全員が納得するまで政敵と凄惨に争うから。だから争乱も長期になるし、被害数も膨大になる。
秀吉が関白になって朝廷の権威を回復させ、惣無事令を出すという、王の機能がなければ、
秀吉軍は九州南端や関東東北の奥地まで秀吉軍を送って、全て潰すまで凄惨な戦いを続けてたと思う。
だから、この争乱の長さは必然なんだよ。
( 2020年04月28日 11:40 )
人間七七四年 | URL | -
※4
赤色革命が凄惨を極めたのは王の機能を徹底破壊したからなのかなぁ
( 2020年04月28日 19:09 )
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