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右大将拝賀

2020年04月30日 17:52

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/29(水) 20:25:12.64 ID:JuT1MqJg
文明十七年秋八月、新将軍(足利義尚)は右大将に任じられた。そして細川政元も、未だ弱冠ではあるが、
父祖代々の職を継いで管領と成り、右京太夫に補任された。

翌文明十八年秋七月二十九日、右大将拝賀の為に新将軍家は御参内あり、御供の人々は(応仁の)乱後の
微力の身なれども、我劣らじと綺羅を尽くし、辺りを払って供奉した。
洛中洛外の貴賤上下、これを見物し奉った。
東山殿(足利義政)も桟敷を構えて御覧有り、大変に嬉しく思われたという。

礼儀の故実は二階堂判官政行に仰せ付けられ、次第作法を定められた。
先ず小侍所は細川右馬頭政賢が先陣を承り、騎馬十人を進ませた。その次に、雲客二十余人、その次に重代の
武士の行進で、番長(奉公衆の番頭)が随身した。次に帯刀左右十二番、その次に将軍家が御車に召され
参向あった。次に衛府官人、次に公卿二十人が御供した。菊亭大納言(今出川)公興卿が御簾の役、
柳原別当重光卿は御沓の役を勤められた。次に畠山政長の嫡子、御児丸尚順、佐々木治部少輔経秀(京極材宗)、

伊勢備中前司貞陸、富樫介政親、等が各々騎馬で、後陣は時の管領、細川右京太夫政元が、騎馬十騎を
従え、辺りを払って供奉した。

行列正しく、天気も更に快晴で。珍しいほどの壮観であった。

應仁後記

室町将軍は、征夷大将軍よりも右近衛大将の任官が重要視されていたと言われますが、
公武を挙げてそれを祝う様子がよくわかる記事かと。



132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/30(木) 19:54:58.97 ID:SWuOrQ+n
>>131
義昭が結局なれなかったやつね>右近衛大将

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/01(金) 12:30:29.09 ID:dv9W74xS
大樹は主上への貢献がちと足りなかったておじゃる
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    割には朝廷や公家の荘園掠め取ったり朝廷そのものを見下しているし、不思議な集団だなぁ

  2. 人間七七四年 | URL | -

    室町時代の朝幕関係は込み入っててなぁ…朝廷と幕府は共犯?供依存?みたいな関係と言うべきかな。
    だから荘園の横領に関しては、幕府は寺社本所領返還政策を重要課題として扱っているから、わりと濡れ衣ではある。
    応仁の乱以降幕府の権威低下にしたがって朝廷も共倒れのようになるので、どっちがどうと言うよりどちらも互いを必要としてた関係なんだよ。

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