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永井カ事 斎藤カ事

2020年05月03日 15:38

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/03(日) 14:51:56.49 ID:vyOfXi5D
永井カ事

永井(長井)と申すは初めは永江(長江)とも名乗った。美濃居益(今須)の城主なり。これも初めは
公方に奉仕し、京都に参勤した。嘉吉の頃、備中守高景と申す人は土岐殿の外戚で同国の豊島(富島)
を知行した。

斎藤と仲が悪くなって度々合戦があり、備中守高景と同子息・四郎左衛門景秀は討死したのであった。
その跡を永井藤左衛門が知行して斎藤に従った。石丸丹波守(利光)父子は明応5年(1496)、斎
藤持是院(斎藤妙椿。妙純の誤り)に滅ぼされた。

斎藤カ事

美濃斎藤は元は越前の住人、利仁将軍の末葉なり。代々美濃国革手(川手)の城主である。土岐は屋形、
斎藤は守護代なり。しかしながら、前代の時には“土岐斎藤”といって国人も一双のように思ったので
ある。元弘の昔にも、土岐頼員は斎藤利行の婿であった。その後、高氏(足利尊氏)の御代となっても
斎藤はなおも美濃に繁昌したのである。

その初めの祖を越前守経永と号す。その子・利明、その子・越前守利永、その次・利藤。帯刀左衛門尉
は成人の子が無く、利明の二男・三位僧都妙椿(斎藤妙椿)が世を継ぎ給う。その人は武道・和歌の達
者で持是院大年公清法印とも申す。明応5年12月7日に逝去なされた。姪を養子として斎藤駿河守基
秀(妙純)と号す。また利国とも名乗った。この人に子無くして利藤の子・利綱にしばらく家督を譲り、
この人の時に斎藤家は断絶した。

しかるに、斎藤家の家僕は永井藤左衛門や同豊後守などであった。豊後守は山城国西の岡より牢人して
斎藤家に来たり、藤左衛門の与力となって度々合戦に労功を積み“永井豊後守”と号してかの家の家僕
となる。斎藤の家督断絶の時、かの家領を両人で知行した。

その頃、公方・義尹(足利義稙)と細川高国より斎藤を召されたのだが、上らなかったので公方より勢
を向けられ、永正17年(1520年)に近江勢が向かった時、革手の城はあまりに要害悪しきとして
稲葉山を取り立てこれを城となした。

その後、藤左衛門と豊後守は不和になって豊後守は病死し、その子・山城守利政の代になってやがて藤
左衛門を討ち取り、斎藤を名乗って自ら美濃半国を知行し、入道して“道三”と号す。

――『江濃記

老人雑話にもありますが、江濃記も父子二代の下克上を記述してますね。



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