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然るに政元は

2020年05月07日 18:23

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/06(水) 21:32:50.59 ID:ypGZd1q7
昔、皇胤二流に分かれ、北朝の持明院殿と南朝の大覚寺殿と天下を争いましましけるに、終に北朝一統して
南方は帰服ましましけり。

公方家、近年両派にして、今出川殿(足利義材系)と堀越殿(足利義澄系)と、大樹の位を代謝あり、
また応仁の乱前より、畠山も両派に分かれ、斯波家も二方に立ち並んで合戦互いに止むことなし。
ただ細川家だけは、先祖常久禅門(細川頼之)の遺徳深き故であろうか、今に仁孝を厚くし、一家も
睦まじく、六代まで繁昌して大名高家の手本とも成る家風であった。しかし世は既に澆季に及び、時運
衰微に至ったのか、この時の管領である右京太夫政元は行跡はなはだしく、思慮邪である故に、これも
子孫二流に分かれ、終に兄弟世を争って互いに戦いあった。その始まりは政元の不義無道、先祖の人々の
志を違えた故である。

聴く所によると細川家の先祖と云うは(以下細川氏歴代のの行跡が延々と語られるが略)

…(応仁の乱で)細川方の者共は、軍の仕様は鈍かったが、細川勝元の忠義に効き、御敵となる名を恥じて
一人も主人に叛く者無く、西陣へ降る人は無かった。これを以て莫大の戦功成就して終に勝元・畠山政長は
運を開き領国を失わず、一方山名方の一族は京都にも留まり得ず、散々に成って亡んだ。これはただ、勝元が
忠義を守り先祖の志を崇めていた故なのだ。然るに政元はその子として、亡父の志を引き違え、
上総介(畠山)義豊に一味して畠山政長を討ったのみならず、公方家の御敵と成って将軍の御位を
恣に替え奉ること、主君への不忠、先祖への不孝これに過ぎる物はないと見え、天下の人望に背いているので、
滅亡は近きに有ると、人々は皆囁きあった。

(中略)

細川政元の奢侈は世に超えたものであった。
聞く所によれば、政元は世の人とは違い、行年四十歳の頃まで女人に近寄ることを禁じ、
精進潔斎を繰り返し、魔法飯綱の法、愛宕の法を行い澄まし、経を誦し陀羅尼を呪し、さながら出家山伏の
如くであり、見る人聞く人、皆身の毛をよだてるばかりであった。
そうであるので、男子も女子も無く、家督を継ぐべき者が無かったため、家長(家老)の面々色々に、ただ
この事を諫言した。

應仁後記


細川政元について



53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/07(木) 21:15:52.00 ID:/n7fNnNP
>>52
>この時の管領である右京太夫政元は行跡はなはだしく、思慮邪である故に、これも
子孫二流に分かれ、終に兄弟世を争って互いに戦いあった。

オーソン・ウェルズ「一人足りなくない?(第三の男BGM)」
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    それって「奢侈」なの?

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