61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/10(日) 22:14:15.02 ID:ZHTYZdfR
享禄4年(1531)、三好筑前守元長は無二の忠功にて一戦に勝利し、常桓禅門(細川高国)を滅ぼした(大物崩れ)。
これによって細川右京太夫晴元は一家(細川京兆家)を一統し、文武の政事を執り行い、乱世も漸く年を経て
静謐に成りゆくかと諸人安堵を成す所に、如何なる天魔の所業であろうか、晴元は未だ若輩にて、佞奸の者を
相近づけ。讒者の実否を糺さなかった故に、また兵乱の世と成ってしまったのだ。
それがどういう事かと言えば、今度降人と成って細川家へと来た木沢左京亮長政は、稀代の悪人にて、種々に
諂い取り入って、晴元の元で出頭し、その他の出頭人である三好神五郎、可竹斎などと相議して、
三好元長に野心が有ると晴元に讒言し、種々の秘計を廻らせたため、晴元は愚にして。それを真と心得、
元長を疑い憎んだ。しかしながら讃岐守之持(阿波守護。息子の細川持隆の間違い。以下持隆とする)は元長の
忠義を感じ、色々と晴元へ言い開き、この年の間は未だ勘気も無かった。
この事だけではなく、木沢長政は今は晴元の元で出頭して、細川家に於いて時めく故に、己の元の主人である
畠山上総介義英(これも息子の畠山義堯との間違い。以下義堯とする)を物の数とも思わず、毎時
無礼を尽くせし程に、義堯はこれを憤って遂に人数を率い陣立てして長政の居城、摂州飯森の要害(飯盛城)を
攻めんとした。元長の一族である三好遠江守(三好一秀か)等は、義堯に頼まれ寄せ手に加わった。
木沢は出陣したが一戦に打ち負け、引き返して飯盛城に立て籠もり晴元へ後詰(救援)を要請した。
晴元はこの時泉州堺に在ったが、一議にも及ばず長政に同心して、この時享禄四年の秋八月二十日、
多勢を率いて自身飯盛城への後詰めのために、摂州中島、三宝寺まで出勢して畠山と一戦し、百余人を
討ち取った。畠山義堯は軍に打ち負け飯盛城も攻めずして散々に引き退いたため、晴元はその跡を追って
三宝寺から富田庄まで攻め上った所に、細川持隆がまた様々に諫言して晴元の軍を留めた。このため
晴元は段々に承知して、富田庄より堺へ帰陣した。
畠山義堯は晴元の姉聟であるといい、然らば近き縁親であり、一方の大将である。そのような人を、
新参で降将である木沢長政に思い替えて、彼を贔屓にし義堯を討とうとした事は、謂れなき邪行である。
「晴元の心の中、頼もしからぬ愚かさよ。」と人々は皆彼から心を放した。
『續應仁後記』
享禄4年(1531)、三好筑前守元長は無二の忠功にて一戦に勝利し、常桓禅門(細川高国)を滅ぼした(大物崩れ)。
これによって細川右京太夫晴元は一家(細川京兆家)を一統し、文武の政事を執り行い、乱世も漸く年を経て
静謐に成りゆくかと諸人安堵を成す所に、如何なる天魔の所業であろうか、晴元は未だ若輩にて、佞奸の者を
相近づけ。讒者の実否を糺さなかった故に、また兵乱の世と成ってしまったのだ。
それがどういう事かと言えば、今度降人と成って細川家へと来た木沢左京亮長政は、稀代の悪人にて、種々に
諂い取り入って、晴元の元で出頭し、その他の出頭人である三好神五郎、可竹斎などと相議して、
三好元長に野心が有ると晴元に讒言し、種々の秘計を廻らせたため、晴元は愚にして。それを真と心得、
元長を疑い憎んだ。しかしながら讃岐守之持(阿波守護。息子の細川持隆の間違い。以下持隆とする)は元長の
忠義を感じ、色々と晴元へ言い開き、この年の間は未だ勘気も無かった。
この事だけではなく、木沢長政は今は晴元の元で出頭して、細川家に於いて時めく故に、己の元の主人である
畠山上総介義英(これも息子の畠山義堯との間違い。以下義堯とする)を物の数とも思わず、毎時
無礼を尽くせし程に、義堯はこれを憤って遂に人数を率い陣立てして長政の居城、摂州飯森の要害(飯盛城)を
攻めんとした。元長の一族である三好遠江守(三好一秀か)等は、義堯に頼まれ寄せ手に加わった。
木沢は出陣したが一戦に打ち負け、引き返して飯盛城に立て籠もり晴元へ後詰(救援)を要請した。
晴元はこの時泉州堺に在ったが、一議にも及ばず長政に同心して、この時享禄四年の秋八月二十日、
多勢を率いて自身飯盛城への後詰めのために、摂州中島、三宝寺まで出勢して畠山と一戦し、百余人を
討ち取った。畠山義堯は軍に打ち負け飯盛城も攻めずして散々に引き退いたため、晴元はその跡を追って
三宝寺から富田庄まで攻め上った所に、細川持隆がまた様々に諫言して晴元の軍を留めた。このため
晴元は段々に承知して、富田庄より堺へ帰陣した。
畠山義堯は晴元の姉聟であるといい、然らば近き縁親であり、一方の大将である。そのような人を、
新参で降将である木沢長政に思い替えて、彼を贔屓にし義堯を討とうとした事は、謂れなき邪行である。
「晴元の心の中、頼もしからぬ愚かさよ。」と人々は皆彼から心を放した。
『續應仁後記』
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