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『三好の平和』

2020年06月05日 17:43

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/04(木) 21:22:46.04 ID:zooui/se
天文二十四年(1555)正月、三好長慶は明石、三木表を帰伏させ播州も平治せしめると、
同二月二十七日、帰郷した。摂州、淡州、阿州の諸勢各々凱旋し皆帰国した。

そのような中、長慶の武威は日を逐って遠近に振り響き、今は畿内近国に相手に足る者も無きが如く、
三好家は次第に繁栄した。

同年十月、改元有って弘治元年となった。

同二年正月二十七日、夜半より彗星出現し、人々は皆「また世に何事か有らん」と言い合った。
六月十五日、長慶の亡父である故三好海雲居士元長の、二十五年の遠忌であり、この追善を修せんが為に、
長慶自ら泉州堺の津へ下向し、故国である阿波からも親族が数多上津して、当津の顕本寺において、千部の
読経、十部の頓写、その他様々の作善を行い、威儀正しき法事を行った。
この顕本寺は故海雲最期の場所であり、彼は自害のとき、腸を繰り出し仏殿の天井に投げつけた。
その跡は明白に、今以て残り、諸人これを見て感歎した。
法事が済むと、各々退散した。

同七月十日、長慶の執事である松永弾正久秀が、布引瀧山城に準備をして、主君長慶を請い侍り、
その他一家の衆中も会し。饗応奔走の上に、種々の遊興を催し、猿楽の能が果てると百韻の連歌があった。
三好長慶は本より乱舞堪能の聞こえあり、連歌に至っては都鄙に隠れ無き名人であった為である。
その後各々帰府した。

さて、この布引瀧山城は河州(摂津の間違い?)において代々楠家の居城であったが、近年楠氏は
浪人の身と成り、この城を退去したために、松永はこの城を居城とした、山中には故正成を始めとして
楠先祖代々の墳墓が現在も有るという。

そうして、近年三好家の武威を以て近国は暫く無為に帰し、今年翌年と、うち続き兵革の煩い無く、
このため京都には警護の武士を遣わし置き、長慶自身は芥川に在城して多年の軍労を漸次休息し、
千句の連歌を興行して心を慰め気を養い、二、三ヶ年安居した。

續應仁後記

畿内における『三好の平和』の様子



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    しかしこの平和も長くは続きませんでした
    義輝のせいです
    あーあ

  2. 人間七七四年 | URL | -

    まあ足利将軍って歴代の行状見てもおとなしく傀儡になりそうなのいないよなぁ
    14代の義なんとかさんぐらいかな?

  3. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    なんとか栄さんは阿波公方とかいう傀儡になるために生まれてきたような家系の出だからな

  4. 人間七七四年 | URL | -

    瀧山城をどこと間違えたんだろ。
    布引の麓からタクシー数分あたりに楠公自害の地ならあるけど。

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