186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/11(土) 12:15:57.34 ID:EFbVF9nF
此あぢ分別肝要候事
以下は細川忠興が嫡男・忠利に送った書状の意訳。
わざわざ申すべきのところ、江戸へ(忠利が)人を下されたので申します。
一、上洛する道中で、羽三左(池田輝政)、羽左太(福島正則)、蜂阿州(蜂須賀至鎮)などの家臣と
行き違いました。どの家中も我々への慇懃さ(礼儀正しさ)が申せない程(よいもの)でした。
それにつき、我々が諸大名に(今までのように応対すると)たちまち無礼になってしまうので
右の衆のほかも(我々の)奉行衆が諸大名に対して無礼がないように、堅く申し触れて下さい。
横目(監視役)も置いて、無礼の者があれば厳しく申し付けるようにしましょう。ただし成敗はせず
押し込めてこちらへ申し越されるのがよいでしょう。
一、加藤肥後(加藤清正)、黒田筑前(黒田長政)については別ですので、そのつもりで申し付けて下さい。
ただし両人の家中も、あなたがその場にいるときは上手く捌いてくることもあるでしょうから
そういうときは見合わせて指図するのがよいでしょう。もしあの家中の者があなたに対して無礼を
したのに、こちらの者が両人に対して慇懃にいたせば曲事になってしまいます。
この案配の分別は大切です。[原文:此あぢ分別肝要候事]
一、右の条々は、一度申し触れただけでは変わらないでしょうから、度々申し触れて下さい。
岡村半右衛門・中嶋左近・戸田助左衛門にもこの書中を見せて下さい。恐々謹言。
(慶長十五年)三月廿三日 忠(花押)
内記殿
――『細川家史料 一六九八号文書』
此あぢ分別肝要候事
以下は細川忠興が嫡男・忠利に送った書状の意訳。
わざわざ申すべきのところ、江戸へ(忠利が)人を下されたので申します。
一、上洛する道中で、羽三左(池田輝政)、羽左太(福島正則)、蜂阿州(蜂須賀至鎮)などの家臣と
行き違いました。どの家中も我々への慇懃さ(礼儀正しさ)が申せない程(よいもの)でした。
それにつき、我々が諸大名に(今までのように応対すると)たちまち無礼になってしまうので
右の衆のほかも(我々の)奉行衆が諸大名に対して無礼がないように、堅く申し触れて下さい。
横目(監視役)も置いて、無礼の者があれば厳しく申し付けるようにしましょう。ただし成敗はせず
押し込めてこちらへ申し越されるのがよいでしょう。
一、加藤肥後(加藤清正)、黒田筑前(黒田長政)については別ですので、そのつもりで申し付けて下さい。
ただし両人の家中も、あなたがその場にいるときは上手く捌いてくることもあるでしょうから
そういうときは見合わせて指図するのがよいでしょう。もしあの家中の者があなたに対して無礼を
したのに、こちらの者が両人に対して慇懃にいたせば曲事になってしまいます。
この案配の分別は大切です。[原文:此あぢ分別肝要候事]
一、右の条々は、一度申し触れただけでは変わらないでしょうから、度々申し触れて下さい。
岡村半右衛門・中嶋左近・戸田助左衛門にもこの書中を見せて下さい。恐々謹言。
(慶長十五年)三月廿三日 忠(花押)
内記殿
――『細川家史料 一六九八号文書』
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コメント
人間七七四年 | URL | -
清正と長政はどちらも性格に圭角というか好き嫌いを表に出しすぎて忠興との仲が宜しくない
この二人と朝鮮で苦楽を共にした鍋島が仲が良くて、九州において忠興と仲が良いのは島津家久しか居ない
色々緊張感を強いられたんだろうな
まぁ忠興個人の性格もアレだが他大名との付き合いは基本良好だからなぁ
( 2020年07月11日 17:51 )
人間七七四年 | URL | -
三歳様やまーくんと仲良くできる悪久さん、ひょっとして類稀なる人格者なのでは…?
( 2020年07月11日 20:58 )
人間七七四年 | URL | -
蒲生氏郷なんかも顕著だが、戦働きと家中での対家臣の態度、文化的な交流はそれぞれ違った印象だったりするし一面で苛烈な性格の人物もいつもそうとは限らんね
( 2020年07月12日 00:35 )
人間七七四年 | URL | -
米2
亀寿「人格者、人格者ってなんだ」
( 2020年07月12日 12:14 )
人間七七四年 | URL | -
※4
宗茂「(正室を)顧みないことさ」
( 2020年07月12日 13:10 )
人間七七四年 | URL | -
そんなに長政のことが嫌いなのか、お互いだけど。
清正ともうまくなかったんだね。
( 2020年07月13日 12:58 )
人間七七四年 | URL | -
※6
黒田と細川の関係は関ヶ原以前は没交渉というかあまり縁が有りません
先鋭化するのが忠興が関ケ原の恩賞で旧黒田領(+森領等)の豊前を接収した時です
この時代、収穫期(関が原が9月)の転封は半歳米といって旧領の年貢半分を取り、残りを次の統治者に渡すというものが慣習(法はまだ出来ていない)でした。所が黒田家は全額持ち去っていました
忠興は丹後の年貢もキチンと半歳で京極家に渡しており豊前の収入がないと豊前経営が出来ません。幕府を巻き込んで大騒動になり結局、黒田家は分割で支払いましたが細川家は苦しい台所で豊前統治をスタートさせなければなりませんでした。恨み骨髄に徹するのも致し方ないかと
じゃあ黒田はなんで半歳を行わなかったかというと、転封先の筑前小早川秀秋が全額持っていったからです。まだ豊臣家の力は無視できないものが有り、その親族筆頭の秀秋には文句を付けられず、細川家なら 程度で持ち去った様です
( 2020年07月13日 15:08 )
人間七七四年 | URL | -
秀秋ェ・・・
( 2020年07月13日 19:11 )
人間七七四年 | URL | -
※7
出た金吾w
しかし家が残らなかったことをいいことに責任転嫁されてる気がしないでもない
( 2020年07月13日 19:15 )
人間七七四年 | URL | -
そういや関ケ原の原因の一つとされている上杉ー堀の確執も年貢の取り扱いから始まっているんだよな
愛と義の人が年貢全部持ち去って更に堀家が借米した保証書を買い取って堀家に返済を督促したとか
( 2020年07月13日 19:57 )
人間七七四年 | URL | -
越後を離れるのが本当に不本意だったんだろうな
帰農した旧家臣なら一筆書けばすぐだろうし…
( 2020年07月13日 20:42 )
人間七七四年 | URL | -
※7
秀秋が没後ボロクソに言われたのはそういう所も一因になってるのかな
( 2020年07月17日 07:04 )
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