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本能寺の変後、顛末

2020年07月19日 17:50

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/19(日) 13:25:42.92 ID:my2u+8BH
徳川家康は堺において本能寺の変の事を聞くと、大和路へ懸かり、高田の城に寄って、城主に刀、並びに
金二千両を下し、その日に出立して、六月四日、三河国大浜に船にて下着され、明智を討つための軍勢を
催し、先ず鳴海まで出陣した。

この頃、羽柴秀吉は美作国高倉(実際には備中国高松)に於いて、森輝元(原文ママ。毛利輝元)と対陣
していた所、信長が没したと告げられ、先ず隠密に森と一和し、摂州表に打ち出て、山崎宝寺上の高山へ
人数を上げた所、明智がかの表に押し出し、六月十三日に合戦した。
明智は敗北し、坂本城に引き上げようと考えていたのか、山科まで逃げ来た所を、百姓等に打ち殺された。
歳六十七であった。

この時、安土に置かれていた明智左馬介はこの事を聞くと、坂本に駆けつけ、明智光秀の男児である十五郎と
一所に火を懸け切腹した。

斎藤内蔵助(利三)は虜となり、京都へ引かれ大路を引き回され六条河原にて斬首された。首は獄門に掛けられた。
この内蔵助は信長勘当の者であったのを、近年明智が隠して抱え置いていたのだという。

家康公は鳴海に居陣していた所、秀吉よりこの様体が委細注進されたため、則ち帰馬され、六月二十八日、
甲州に出馬された。

当代記



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    斎藤利三が信長からも絶縁された上で光秀に仕えてたとすると稲葉さんの面目更に丸潰れだな。。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    >高田の城に寄って、城主に刀、並びに金二千両を下し、

    これって脅迫にでもあったのかな?もしくは道中の案内依頼?

  3. 人間七七四年 | URL | -

    当時の高田城主が誰かわからないけど、筒井の勢力圏内だからバラまいて身の安全を確保したのでは

  4. 人間七七四年 | URL | -

    そこで護衛や道案内を雇ったのかもしれない
    銭払うから頼りになる奴を集めてくれと頼んだんじゃない?

    家康は甲賀の多羅尾家に後日報いると誓いの書状を遺したので、
    おそらく大和から川伝いに北上して甲賀に入り、そこから伝手のある伊賀に入ったのだろう

    南から信雄領に至る道もあったけど三河に戻るなら北側の方が近い
    伊賀衆とは前から親密だったのだろう家忠日記にあるこの時の伊賀衆の活動からすると
    穴山を始末するために敢えて伊賀を通った線も考えられる
    家忠日記だと穴山の最期は…

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