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これによって柴田は敗北した。

2020年07月20日 18:31

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/20(月) 14:19:10.63 ID:ZrmSldMr
天正十一年四月二十一日、近江北部において柴田勝家、羽柴秀吉の両陣が相向かい睨み合っていた。
柴田は賤ヶ岳を攻め落とし、籠もっていた人数を討ち果たし、この時に合戦を企てた所、柴田方であった
丹羽五郎左衛門(長秀)、前田又左衛門(利家)が秀吉に属し、柴田の備に手勢を出し、これによって
柴田は敗北した。

秀吉はこれを追い、越前へ討ち入り、柴田居城へ押し掛けた。敗北の士卒が未だ城に戻っていない間に、
柴田の城に火を懸け、同二十四日に柴田が切腹したため、越前は平均となった。

柴田の妻女は城を出ず焼死された。これは織田信長の妹で、浅井備前守(長政)の後室であった。
この腹に浅井の息女が二人(原文ママ)あった。彼女らは乳母の才覚によって無事に城から出られた。
大阪の秀頼の御袋(淀殿)、並びに江戸将軍の御台所(お江の方)がこれである。

当代記

前田利家だけじゃなくて、丹羽長秀も本来柴田方だったという受け取り方も有ったのか…。



209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/20(月) 19:06:38.05 ID:AS+ANcNz
>>208
のちほど腹わたぶちまけた逸話があり、長重もひどい目に遭わされてるからなのかな
利家は優遇されてるけど

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 16:29:36.08 ID:vNuSlIAR
長重は酷い目にあったから大成したわけだしあれで良かったのさ。
じゃなかったら利常とのエピは発生してない。

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 21:21:32.00 ID:pwPPcnwp
>>210
にしても、賤ヶ岳や小牧長久手にも出陣し、
しかも小牧長久手は長秀の代理での出陣だからその時点で半ば家督継いでいたようなものなのに、
長秀が亡くなって正式に相続した途端に難癖つけられて、123万石→15万石→4万石の大減封はありえん…。
織田信雄が100万石→0になったのよりも減っているって、凄まじい。

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/23(木) 00:27:07.78 ID:AxVMh1z5
>>212
柴田も丹羽も、秀吉には邪魔だったんだね
佐久間が追放されてなかったらどうなっていたか
関連で、羽柴姓の由来ももうちょっと、真面目に考察した方がいいと思う
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    常高院「」

  2. 人間七七四年 | URL | -

    越前は平均となったってどういう意味?

  3. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    「平定」と同じ意味。敵を打ち平らげること。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    >>丹羽長秀
    確かに付き合いの長さや織田家での立場を考えれば、秀吉寄りよりも柴田のおやっさん寄りに見られるか?
    個人的な感覚だと秀吉側に付いた長秀の思い切りの良さは、内政にも強かったからこそ柴田側の政治力に限界
    を感じたのかなと思ってる

  5. 人間七七四年 | URL | -

    その後の丹羽の処遇考えると失敗したなー、と

  6. 人間七七四年 | URL | -

    付き合いの長さという意味なら信長が義昭奉じて上洛したころから秀吉と長秀は京都奉行として一緒に活動してるし、浅井朝倉との闘いでも一緒、領地も隣で関係は深いと思うけどね
    柴田よりだったことあるのかね?

    領地の削減はあれは長秀に与えられたものであって長重に与えられたものではないので、代替わりしたら減らされるのは当たり前なんだけどな、信長でも同じことしてるよ
    あの鬼武蔵ですら弟には領地継がせないでくれと遺言してるように幼い子供に領地継承させるほうが織田家としてはありえない処置、秀吉も当然同じ対応をとる
    この人は江戸時代の感覚で言ってるよな

  7. 人間七七四年 | URL | -

    ※6
    それ以前の付き合いがなぜ入っていないのだろう?
    個人の感覚まで言い出したら切りがないと思うのだけど

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