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分明の争論に及ばぬ

2020年08月10日 18:22

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/10(月) 16:52:26.08 ID:RK9l63yj
慶長十一年六月、この頃、京の町人たちが北野、賀茂あたりに行くと、かぶき(当世異相をこう云う)衆と
呼ばれる者たちが出てきて戯れ、これに町人たちは悩まされた。その上彼らは女色に浸り、覚えの外の事が
多かった。

大御所(徳川家康)はこれを聞かれると以ての外の逆鱗で、この事について虚言であると、申し分の旨を
言おうとした者たちにも

「分明の争論に及ばぬ。」

として、津田長門守、稲葉甲斐守、天野周防守、澤半左衛門、苑田久六、等が改易と成った。
その後また、大島雲八、阿部右京、矢部善七郎、野間猪介、浮田才壽が改易と成った。
それでも、未だ同類が甚だ存在していると云われたが、重ねて町人たちが迷惑に及ぶような沙汰は無くなった。

当代記



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    大島さん数年前に亡くなっているし、息子達に分割相続させたから大名じゃ無くなっただけなのに

  2. 人間七七四年 | URL | -

    慶長11年→1606年

    豊臣家を差し置いて、
    家康が自分の好感度アップの為に、京都人に媚びを売ったという事かな。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    別に媚び売らなくても人気ないしな 豊臣

  4. 人間七七四年 | URL | -

    豊国神社のお祭りが当時最大のお祭りでみなから慕われていたのを知らないの?
    だからそれに嫉妬した家康は徹底的に破戒した

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ※2-4
    そういう痛いやりとりは要らない

  6. 人間七七四年 | URL | -

    家康を叩いている奴は少しは秀吉を見習えよ

  7. 人間七七四年 | URL | -

    一部の例だけ取り出して人気があるとか人気がないとか言っても仕方ない

  8. 人間七七四年 | URL | -

    ※5ー7
    そういう世相じゃないの?
    1600年~1614年の期間は、豊臣から徳川に靡く世論形成がされるから。

    だから家康は京都の人に、徳川の世の心証が良いように、徹底して治安を取り締まったのだろ?虚言と言った者も処分してまで。

    この頃は、秀頼は右大臣で、京都の人に豊臣の心証は良いから、それを徳川にすげ替えたいと。

    どうして徳川叩きだと思ってるのか意味不明なんだけど。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    >どうして徳川叩きだと思ってるのか意味不明なんだけど。
    治安維持は為政者の基本課題で人気取りの施策とは到底言えない
    それを家康個人の嫉妬心にすり替えるから話がおかしくなる
    要は「皆がやってることを家康に限って糾弾する」態度が問われているのですよ

  10. 人間七七四年 | URL | -

    津田信成の項

    「太平の 儚き思い かぶき奴の戯れ」とかではなくただの酒乱じゃねーか

    慶長12年(1607年)、美濃国清水藩主の稲葉通重や旗本の天野雄光らと共に京都の祇園に赴いたとき、茶屋四郎次郎や後藤庄三郎の女房を始めとする美女7・8名を茶店に連れ込んで酒を飲ませたり、従者を木に縛り付け、刀を抜いて斬り捨てると脅すなどの乱暴狼藉を働いた経緯を徳川家康に咎められ、御牧藩は改易された。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    治安維持は人気取りとかいう謎のロジック

  12. 人間七七四年 | URL | -

    ぶっちゃけ洛中洛外の静謐を守ることは天下人の職責なんだから
    太閤の後継者を自認するなら秀頼がやらなきゃいけない仕事だよこれは
    家康に任せきりにしといてやれ嫉妬だ人気取りだとかちゃんちゃらおかしいわ

  13. 人間七七四年 | URL | -

    京都から豊臣寄り勢力の排除かもしれないしね。

  14. 人間七七四年 | URL | -

    まあ秀頼が天下人になった時期が一度もないし、大阪から出たがらない時点で関白なんて到底無理やし

    京に豊臣寄りの勢力って具体的に誰がいるの?朝廷はもちろん寺社やら民草にいい感情持たれてないし

  15. 人間七七四年 | URL | -

    まあ秀頼が天下人になった時期が一度もないし、大阪から出たがらない時点で関白なんて到底無理やし

    京に豊臣寄りの勢力って具体的に誰がいるの?朝廷はもちろん寺社やら民草にいい感情持たれてないし

  16. 人間七七四年 | URL | -

    この人達ってそれなりに軍功なり血筋なのに、関ヶ原から約6年後。
    ちょっと平和になっただけでこれだけタガが外れるのか?

  17. 人間七七四年 | URL | -

    ※16
    実のところ渡海しなかった徳川家は関ヶ原も10年振りくらいの実戦だったからなぁ
    秀吉に臣従したあとは小田原征伐、奥州再仕置以外はずっと平和だったとも言えるし

  18. 人間七七四年 | URL | -

    ※15
    ん?朝廷も寺社も民草もみな豊臣びいきなんだけど
    だから朝廷は豊臣討伐を最後まで邪魔していたし、寺社も復興に豊臣家から莫大な支援を受けていたから恩をえていた、民草はいうまでもないね。畿内の豊臣びいきはいまだに続いている

    それだけ多くの者たちから親しまれていたので家康は秀頼を殺さないといけなかったのだから

  19. 人間七七四年 | URL | -

    ※18
    独自研究はご遠慮ください
    違うならソース貼ってね

  20. 人間七七四年 | URL | -

    ※19
    家康が難癖つけて秀頼征伐を行ったときには朝廷から直視が家康の所にきて停戦を命じてるよ。
    家康は拒否して秀頼滅ぼしたけどね。その結果禁中並び公家諸法度が施行されて幕府による朝廷支配がはじまった。朝廷の守護者であった豊臣家が滅んだことが原因、このように朝廷と豊臣家は蜜月でした。
    開眼供養で豊臣と徳川がもめたときも朝廷は幕府の要求を却下して豊臣家の予定通り行うべしとして、元皇族を派遣して行う予定でした。

    寺社このころの豊臣家は各地の神社仏閣の復興の為に莫大な金をばらまいており、そのことで感謝されている。
    豊国神社に隣接する大仏殿では天台、真言、日蓮、法華などから100人ずつの僧侶が集まり、毎月法要が行われていたことが言経卿記に記されている

    豊国祭りは盛大に行われており、京おいては当時最大のお祭りであったことが記されてますね。七回忌においては八日間にわたって盛大にお祭りが行われ、お祭り好きの京の人達に大変親しまれていたことがわかってます。
    何より秀頼で悪い話が一切ないんですよね。悪政したとかね。

    で、あなたはなにを根拠に主張されているんですか?

  21. 人間七七四年 | URL | -

    ※20
    それは畿内で豊臣家が親しまれていた傍証ではあるが
    「だから家康は秀頼を殺さないといけなかった」理由になってない
    ゆえに依然独自研究の範疇を外れていないと思います

  22. 人間七七四年 | URL | -

    ※21
    もともと15の
    「京に豊臣寄りの勢力って具体的に誰がいるの?朝廷はもちろん寺社やら民草にいい感情持たれてないし」
    ということへの反論、これのソースはなに?

    家康が殺さないといけなかったのは、家康の死後豊臣家の天下に戻ってしまうからでしょうね。
    二重公儀論を提唱している人だと、家康の死後は対立するのでということですが、家康本人の時代で秀頼征伐に動いてますからね。大阪城を孤立させるための街道沿いの築城や大型船の禁止と没収を行ったあたりから始まっているというのが通説ですかね。

  23. 人間七七四年 | URL | -

    このイカレタやり取りはなんとかならんのか?

  24. 人間七七四年 | URL | -

    なんともならない炎暑が続いてるからね
    仕方ないね

  25. 人間七七四年 | URL | -

    15の人が独自研究結果ではなくて、きちんとソースをつければいいだけではないでしょうか

  26. 人間七七四年 | URL | -

    京都所司代よりも年頭令後回しにされてるのに蜜月とは一体…

  27. 人間七七四年 | URL | -

    家康は、関ヶ原で、太閤蔵入地を東軍の報酬として削られて、豊臣政権の経済基盤を縮小させるという事をしてる。

    さらに1605年には、秀忠に征夷大将軍の世襲して、摂関家豊臣に対して、何らかのマウント取りもやりたい背景はあるよね。

    改易されたのは人物の所領は、山城、美濃、伊勢の部分だし、豊臣征伐ルートの強化として、彼らは咎を受けた可能性あるかもね。
    本人らは虚言と否定してるんだし。

  28. 人間七七四年 | URL | -

    どうしてそんなすぐにわかる嘘を

  29. 人間七七四年 | URL | -

    ※22
    ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12604.html(当代記)
    ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10596.html(醒睡笑)

  30. 人間七七四年 | URL | -

    ※29
    上のはそのスレにも書かれているように税体系の変更にすぎませんね
    信長のなんちゃって楽市楽座と違って、秀吉は破座によって座撤廃したこと、また関所も撤廃しました
    そのかわり商行為への課税を小売りするときにかけるようにしたのです。

    下のも商行為への課税です、金をため込んで動かさないと経済が回らないので金を無理やり貸し付けて利息を取ることで、資産家や商人に積極的に金を動かせるためにやっていることです。

    どちらも豊臣の先進性と善政を示すものですね。

  31. 人間七七四年 | URL | -

    ※26
    秀頼には毎年年頭のあいさつに勅使がきていたのにたいして、家康と秀忠なんて京都にいないと朝廷から年頭のあいさつ来ないわ、
    朝廷に挨拶しても秀頼とは違って返礼の使者こなかったりするんですけどね
    明らかに朝廷は豊臣家より格下に扱ってるんですけどね

  32. 人間七七四年 | URL | -

    京都にいないから交渉窓口の京都所司代に勅使が送られたんやで
    その京都所司代よりも後回しされてるという話だと思うんですがそれは…

  33. 人間七七四年 | URL | -

    何というか歴史以前に日本語を勉強しなおしたほうがいいような

  34. 人間七七四年 | URL | -

    こうして見ると、豊徳の主従関係って、あまり解消されてないように思える
    たとえ源姓を得て足利家職の征夷大将軍を襲っても、それで天下人になったとはみなされなかったんじゃないのか
    結局徳川譜代を除いた衆目の期待する所は、天下人豊臣秀吉の正統後継者豊臣秀頼の、後見人徳川家康、という立場だったのかもしれない
    秀頼の所領管理の件にしても、例えば鎌倉将軍と執権の関係のような、あるいは江戸の将軍と老中、奉行達との関係のようにも見えるし
    千姫を嫁にもらって秀忠とも婿舅の関係となって、次代にもこの関係が続くかのような、蜜月の関係だったんじゃないのか、大坂の陣直前までは
    それが理念と現実の解消の果てに秀頼は座りかけていた天下人の座から、心望も命も財貨も文字通りすべて剥ぎ取られて追放されて、反逆者の王として戦国の亡霊共と一所に転げ落ちていった
    いまだ後代にまで及ぶ主殺しの汚名は、深く深く埋火のように燻り続け、昏く陰を落としているように思えてならない
    このコメ欄見ててそんな感想が浮かんできた

  35. 人間七七四年 | URL | -

    妄想の果てにポエムを垂れ流し始めたぞ

  36. ※34 | URL | -

    ※35
    ああうん、すまんな、どうかしてたわキモくてごめんな?
    で、今最新の豊徳関係の研究ってどうなってんの?誰がどんな主張してて、それに対して反論とかどんなのがあがってんの?
    関ヶ原の合戦が白峰先生中心にだいぶ盛り上がってるみたいだから、遠からずこっちも盛んになりそうだけど、やっぱまだ二重公儀論とその否定論止まりなの?
    この辺りの時代はつい感傷的になりやすくて、なんとなく深入りしてないんだ、隙あらば変なポエム書いちゃうから

  37. 人間七七四年 | URL | -

    ※32
    そもそも徳川には勅使きてないんで

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