261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/14(金) 15:32:16.74 ID:1KuHNIZk
明智が謀反を起こして、信長様に切腹をさせた時、本能寺に我等より先に入ったというものがあれば、それは全て嘘である。
その理由は、信長様に切腹させるとは夢にも思わなかったからである。
その頃、太閤様が備中に輝元殿を討ちにいっておりその援軍に明智が行くことになっていた。
山崎の方に向かうと思っていたのだが、思いとは違い京へと行くことになった。我等は、その時に家康様が上洛していたので、
家康様を討つとばかり思っていた。本能寺というところも知らなかった。
人衆の中から、馬に乗った二人が出てきた。斎藤内蔵助の息子と小姓であった。本能寺の方に行く間、我等はその後に付き、
片原町へ入った。
二人は北へ向かい、我等はみな堀際へ東向きに向かった。
本道へ出ると、橋の際に人が1人いたのでそのまま我等は首を取った。
内へはいると、門は開いており、鼠のようなものすらいなかった。首を持ったまま内へ入った。
北から入った弥平次(明智秀満)殿の母衣衆二人が首は打ち捨てるように言われたので、堂の下へ投げ入れ、正面から侵入したが、
広間にも一人も人はいなかった。蚊帳がつってあるだけで人はいなかった。
庫裏の方より髪を下げた白い着物の女を捕らえたが侍は一人もいなかった。女は「上様は白い着物を召されている」と言ったが、
それが信長様のことだとは知らなかった。その女は斎藤内蔵助殿に渡した。
御奉公衆は袴・肩衣、股立を取り、2・3人が堂の中へ入ってきた。
そこで首を又一つ取った。その者は、一人奥の間から出てきて、帯もしていなかった。刀を抜き、浅黄色の帷子で出てきた。
その時、多くの人が入ってきてそれを見て敵が崩れた。我等は蚊帳の陰に入り、かの者が出てきて過ぎていくところを後ろから切った。
首を二つ取ったので、褒美として槍をいただいた。
「本城惣右衛門覚書」
262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/14(金) 21:23:11.70 ID:h/4i2y9k
>>261
これは出所が古書店というのが惜しい
高齢ゆえ記憶違いはあっても、大筋は合っていると個人的には思うけど
そういえば、226の兵隊もまさかクーデターとは知らなかったから、本城の記録も正しいとかどっかのサイトで指摘してたな
イエズス会の記録でも家康暗殺の噂があったというが、それが真実味を帯びて語られる土壌があったと
武田征伐後からの信長、家康双方の接待合戦なんかを考えると、なぜそんな話が広がったのか理解に苦しむのだが、みなさんはどう考える?
263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/15(土) 07:51:45.79 ID:9aPcvoDD
以前家康は武田に内応しようとしていたが信長に察知され止む無く信康に罪を被せ家を保ったが今回武田が滅ぶことになり武田方から家康が謀反しようとしていたとの噂が信長の耳に入り必要以上に真偽の確認をして家康暗殺計画に至ったと考える
264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/15(土) 10:24:31.27 ID:b1boNngP
あるわけねーじゃん
267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/15(土) 10:47:40.02 ID:Cy2by8PS
>>262
明智家中では家康はライバルだから、信長よりは殺す対象として適切と思われてたんじゃない?
明智が謀反を起こして、信長様に切腹をさせた時、本能寺に我等より先に入ったというものがあれば、それは全て嘘である。
その理由は、信長様に切腹させるとは夢にも思わなかったからである。
その頃、太閤様が備中に輝元殿を討ちにいっておりその援軍に明智が行くことになっていた。
山崎の方に向かうと思っていたのだが、思いとは違い京へと行くことになった。我等は、その時に家康様が上洛していたので、
家康様を討つとばかり思っていた。本能寺というところも知らなかった。
人衆の中から、馬に乗った二人が出てきた。斎藤内蔵助の息子と小姓であった。本能寺の方に行く間、我等はその後に付き、
片原町へ入った。
二人は北へ向かい、我等はみな堀際へ東向きに向かった。
本道へ出ると、橋の際に人が1人いたのでそのまま我等は首を取った。
内へはいると、門は開いており、鼠のようなものすらいなかった。首を持ったまま内へ入った。
北から入った弥平次(明智秀満)殿の母衣衆二人が首は打ち捨てるように言われたので、堂の下へ投げ入れ、正面から侵入したが、
広間にも一人も人はいなかった。蚊帳がつってあるだけで人はいなかった。
庫裏の方より髪を下げた白い着物の女を捕らえたが侍は一人もいなかった。女は「上様は白い着物を召されている」と言ったが、
それが信長様のことだとは知らなかった。その女は斎藤内蔵助殿に渡した。
御奉公衆は袴・肩衣、股立を取り、2・3人が堂の中へ入ってきた。
そこで首を又一つ取った。その者は、一人奥の間から出てきて、帯もしていなかった。刀を抜き、浅黄色の帷子で出てきた。
その時、多くの人が入ってきてそれを見て敵が崩れた。我等は蚊帳の陰に入り、かの者が出てきて過ぎていくところを後ろから切った。
首を二つ取ったので、褒美として槍をいただいた。
「本城惣右衛門覚書」
262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/14(金) 21:23:11.70 ID:h/4i2y9k
>>261
これは出所が古書店というのが惜しい
高齢ゆえ記憶違いはあっても、大筋は合っていると個人的には思うけど
そういえば、226の兵隊もまさかクーデターとは知らなかったから、本城の記録も正しいとかどっかのサイトで指摘してたな
イエズス会の記録でも家康暗殺の噂があったというが、それが真実味を帯びて語られる土壌があったと
武田征伐後からの信長、家康双方の接待合戦なんかを考えると、なぜそんな話が広がったのか理解に苦しむのだが、みなさんはどう考える?
263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/15(土) 07:51:45.79 ID:9aPcvoDD
以前家康は武田に内応しようとしていたが信長に察知され止む無く信康に罪を被せ家を保ったが今回武田が滅ぶことになり武田方から家康が謀反しようとしていたとの噂が信長の耳に入り必要以上に真偽の確認をして家康暗殺計画に至ったと考える
264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/15(土) 10:24:31.27 ID:b1boNngP
あるわけねーじゃん
267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/15(土) 10:47:40.02 ID:Cy2by8PS
>>262
明智家中では家康はライバルだから、信長よりは殺す対象として適切と思われてたんじゃない?
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コメント
人間七七四年 | URL | -
えっ
( 2020年08月14日 17:39 )
人間七七四年 | URL | -
余程の将兵じゃない限り信長の顔なんて見たことないだろうしな
庶民は馬揃えとか行軍中の信長を見ることはあってもそれが信長だと認識できたのかな
( 2020年08月14日 17:50 )
人間七七四年 | URL | -
「上様」って呼ばれてても信長とは限らないのか
( 2020年08月14日 18:54 )
人間七七四年 | URL | -
普通行軍中でも大将には馬印がそばにあるしその中で一番立派な甲冑着ているやつやろ
島津家久も信長の行軍見て『信長疲れてたのか馬上で寝てた』って日記遺している
多分、尾張・岐阜・京都の市民はよく見知っていたんじゃないかな
( 2020年08月14日 20:02 )
人間七七四年 | URL | -
信長も影武者とかいたのかな
( 2020年08月14日 20:08 )
人間七七四年 | URL | -
信長の首が見つからなかった理由って、案外こんな嘘でしょって言いたくなる理由だったりして
( 2020年08月14日 21:36 )
人間七七四年 | URL | -
前に読んだ小説か何かだと
山崎の合戦後に信長が秀吉の陣を訪問→秀吉に消されるってのがあったな
( 2020年08月15日 11:02 )
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