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『多聞院日記』より、本能寺前後の話

2020年08月28日 17:10

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/27(木) 23:42:02.81 ID:+of7yAKA
多聞院日記』より
本能寺前後の話(一部、まとめにもあり)。奈良の僧侶が見聞きした、ウソも真実も混じった当時の情勢記録。
もろもろ、論文などに引用されていますが、改めて見返すと、あのときの世情を追体験できる記録なので、抜粋します。
また、多聞院英俊が一日の終わりに日記を記しているのではなく、なにか興味深いことを聞くとすぐに日記に記していたことも分かると思います。
英俊はかなりのニュースマニアだったと思われます。追記で「ウソ」などと記してもいますし。


天正10年4月
近頃、乾の方角から彗星が現れた。光の元は戌亥、末端は辰巳の方角。光の長さは10丈もあるように見えて、近年は見なかった長さだった。恐ろしいことだ(追記、「信長生涯ノ先端也」)
6月2日
筒井順慶が今朝、京都に上ったところ、「上様」(信長)がすぐに西国に出馬するといって、安土へ帰ったそうだ。なので、順慶も奈良へ帰った
信長が京都で殺害されたらしい。信忠も殺されたようだ。明智光秀と津田信澄が申し合わせて殺したという。(追記、「コレハウソ」)
未明のことで、朝方に漏れ伝わってきた。盛者必衰の金言があるので、驚きはしない。
諸国がことごとく(織田家に)反逆してくるだろうか。世は常ならず。日を追って眼前になった。状況はたしかにはわからない、どうなるのだろうか。
3日、未明から大雨が降った、京都の様子は確実な情報は届いていない。二条御新造に信忠が逃げ入り、正親町天皇を人質に取り、今上天皇も殺害された(追記、「ウソ」)。
京より注進があって、信長は本能寺で、信忠は二条御新造で殺害された。菅屋長頼、村井父子3人、福富秀勝、このほか小姓衆500~600人が殺された。
光秀はまず坂本へ入り、大津、松本、瀬田に陣取ったらしい。「細川殿」も死んだようだ。
今日、奈良の軍勢はことごとく大安寺、辰市、東九条、法花寺のあたりに陣取ったようだ。どうなることか。
4日
順慶と南方衆、井戸の軍勢が光秀勢のもとへ出陣したようだ、どうなんだろうか
5日
昨日、京へ出陣した筒井軍は撤退したそうだ。ならば織田信孝と申し合わせてのことだろうか。ありそうな話だ。
大坂において津田信澄が殺されたそうだ。光秀の婿で、一段の器量のある者だった。信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆などがやったのか。ただ、ウソかも知れない(追記、本当だった)
伊賀では織田信雄の勢力の城が空城になり、浪人衆が入城したようだ
安土は4日に光秀方の手に落ちた。佐和山(長秀の居城)には山崎片家が入った。長浜には斎藤利三が入った。
筒井軍は先日、京都へ向けた軍を近江に向けた。順慶は光秀と堅く盟約を交わしているとも言う。どうなるのだろうか。
9日
今日、河内へ筒井軍が出撃するという沙汰があったが、にわかに繰り延べになったらしい。また、郡山城へ米と塩をにわかに入れたという。なぜ方針を転換したのか。不審である。
10日
先日、京都へ向かった筒井軍は近頃、帰ってきていた。羽柴秀吉が近いうちに上洛するのが決まったので、これによって判断を変えたと聞こえてきた。
14日
昨日、光秀より藤田伝五が順慶のところに来て、同心せず交流を絶ったが、木津まで帰ったところでまた呼び返したという。なんなのか、心苦しい。
秀吉に順慶は味方すると誓紙を送っている、村田と今中が使いだったらしい
井戸覚弘、この間に病を患い、9日に死んだ。深くその死を隠したと言うが、本当かどうか。まったくのウソだった。
今日の朝方に郡山で順慶が切腹したと連絡があった。とてつもなくびっくりしていたところ、「順慶ではない、藤田伝五に腹を切らせた」と言ってきた。
肝を消していたが、それもウソだった。奈良中でそんな状態だった、天魔の所業である。
奈良中で資産を隠しだした。光秀の家来が隠したものを盗んだ者を2人殺したという。気持ちが沈む。
12日(後記か)
秀吉が摂津にやってきた、「猛勢ニテ上」。家康はすでに安土に着いて陣取りしているらしい。どうなるのか。光秀軍は八幡と山崎にいる。
。淀のあたりまで光秀軍は撤退するのではと噂されている。これによって奈良中は静かになった。
隠し物を盗んでいたのは井上九郎三郎の者どもで、3人を殺害し、いよいよ奈良は静まった。
13日
勝竜寺城が落ちた。秀吉は京に上り、光秀は坂本へ逃げ落ちたという。本当だろうか。

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/27(木) 23:42:56.34 ID:+of7yAKA
(続き)

14日
日中まで大雨が降った。うち続く大雨、これまでになかったことだ
15日
夜を通して雷鳴が鳴り、大雨が降った
去る12日、光秀軍は数千人の損害を出した。坂本へわずか30人ばかりで逃げ帰り、秀吉は大津まで前進した。
今日、山から見て見ると、比叡山の東の方が大きく焼けていた、と(誰かが)いっていた。必ずや、坂本の町を焼いて城を攻めていると風聞があった。
順慶は今朝、1000人ばかりで出陣した。昨今は6000~7000人ばかりで出陣していたという。
今夕、醍醐に陣取りしたが、秀吉が陣を見て、「曲事である」と言い、「すべて天下は信長の御朱印のようにしなければならない」と命じた。もっともなことだ。
5月の23日まで雨は降らなかった。24日より降り始め、20日以上降っていた。今日は雨がやんで天気がよかった(私の注記、本能寺前後はずっと雨が降っていた)
先日の合戦で光秀が討ち死にしたのは間違いないという、時が終わった
(日付不明)
順慶の行動は曲事と(秀吉方から)沙汰があって、またも奈良中で資産を隠す。気持ちが沈む。
17日
光秀は12日に勝竜寺から逃げて、山科にて一揆にたたき殺された。首も胴体も京都に移されたという。あさましきことだ。
細川幽斎の中間だったのを引き立て、信長が厚く恩を与えて召し使ったのに、大恩を忘れて曲事に至った。天命かくのごとし。
斎藤利三が生け捕られて安土へ勾引されたという。天命天命。
18日
本能寺では光秀をはじめ、首が3000ほどあるという。斎藤利三は17日に京で引き回され、首を切られたという。
21日
近衛前久が死んだというので、一乗院はもってのほか取り乱した。間違いなく(近衛生害は)ウソだろう。
29日
大乗院殿が安土より帰った。信孝と昵懇で礼があったというので、めでたいめでたい。信雄と信孝の考えが合わないので、諸軍勢がいまだ帰陣していないようだ。
7月6日
天下の様相は、柴田勝家、秀吉、長秀、池田恒興、堀秀政、以上の5人で「分取ノ様」にその沙汰があった。信長の子供はその議論の俎上にも上がらなかったようだ。あさましいことだ。
7日
天下の様相、信雄と信孝が争いをやめないので、両人とも秀信の名代を辞退し、信雄は伊勢と尾張、信孝は美濃、信包は伊賀(追記、「ウソ」)。
柴田は長浜(20万石)、堀は秀信のおもり、これによって近江中郡の20万石、長秀は高島郡、志賀郡、恒興は17カ所と大坂を知行した。
秀吉は山城と丹波(丹波は羽柴秀長の知行)、西ノ岡と勝竜寺以下、河内の一部を得た。
おおむね、秀吉が主張した通りだった。それなので下京六条に城をつくるという。(秀信の)名代はいないまま、5人で議論を交えて(秀信を)もり立てようということになった。
順慶は大和一円と宇治郡、宇多郡も知行したらしい。秀吉が推薦したそうだ。これで奈良は平穏か(追記、「ウソ」)。もっともなことだ。
このように決まり、欲がまざってまた、信長の子供がたくさんいるのに、まったく議論にならなかった、「クルイ」が出てきたのではないだろうか。
8日
今日、秀信(3歳)が秀吉のお供で京にいる。諸大名が御礼をしたそうだ



300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/28(金) 14:01:20.05 ID:X7bjes8W
コウモリが思ってた以上にふらふらしてた
信長様が生きてても判断が遅い!ってどっかで粛清されてたかも
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    もう信忠に家督譲っていたから俎上にも上らないのは仕方ないけど
    やはり世間では信忠の後継者ではなくて、信長の後継者なんだよな
    そこそこ有能なのに影が薄い

  2. 人間七七四年 | URL | -

    どしゃぶりの雨の音が聞こえてきそうな記録。
    色々疑問や!と思ったことがあれこれ。
    明智光秀は
    >細川幽斎の中間だったのを引き立て
    なのか!?
    そして
    >「細川殿」も死んだようだ。
    ここには「ウソ」と書かれていない。
    フン!と、細川を小ばかにした多聞院の様子が見える忌がした。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    記録者の多聞院英俊は、大和の豪族の十市氏の出。
    十市氏は松永久秀に付き、細川殿との対立があったことから、細川を快く思ってなかったのは分かる。
    が、この松永弾正と筒井順慶はずっと争った間柄。
    にもかかわらず、筒井氏を気にかけているのは、縁戚関係があったのか、それとも同じ奈良の古い豪族として対立した過去はさておき気に掛けたのか、領民の心配をしたのか。もう少し、その辺りの内情が知りたいな。ちょっと詮索したくらいでは解らなかった。

    それにしても面白いです。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    流言の飛び交い振りに、当時の京都・奈良がいかに混乱の渦中にあったか、が現れてますね

  5. 人間七七四年 | URL | -

    当時の空気まで伝わってくるようで、ものすごく面白い資料だね。
    中でも6月3日の「細川殿」が誰を指しているのか?そもそも本当に死亡したのか?が気になって軽く調べてみたけど、今度は改名した武将の名前が世間に浸透するまでにどれだけ時間がかかったのか?という新たな謎がわいてきて…楽しい。本当に興味が尽きない。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ※5
    ああ、細川殿は幽斎親子で髪を切ったのが、そう伝わったのかと勝手に思ったが、別人の可能性があるのか。だから「」付き?

  7. 人間七七四年 | URL | -

    細川幽斎は別にフルネーム(出家名だが)で書いているので
    細川”殿”とわざわざ書いているのは元管領、京兆家の昭元を指しているのではないかな?

  8. 人間七七四年 | URL | -

    ※7
    昭元は信長の妹正室に迎えてますから、それで光秀に討たれたのでは?て流言出たのかなあ?と思わなくもないかと。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    典厩家とか半国守護家とか『細川殿』だけだといろいろおるからな
    そもそも細川藤孝が在京してないのは知ってるはずというか、この時期はまだ長岡名乗りじゃないっけ?

  10. 人間七七四年 | URL | -

    細川といっても随分色んな家があるんだな。
    細川典厩家とか知らなかった。勉強になりました。
    ところで、多聞院英俊の出身の十市家、松永には一時的に降っていたようで、元々筒井家とは嫁のやり取りをする間柄。また兄弟で争ったり相続で揉めたりと、この時代らしい在りようであったとwikiから読めました。多聞院は兄弟の一方に贈り物をしている記録もあるので、どうも親族の筒井家と奈良の平穏を心配していたと思われる。心痛めてたんですね。
    多聞院英俊、今に生きてたら、「ソースは?」と書いていそう。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    細川殿と書いてあるから「どこの細川だよ」と疑問だったんだけど、やっぱり昭元じゃなかなと

    ホント、当時の空気があると思う。しかもちゃんと追記までしている辺り、諸々の情報収集を
    怠らなかったって事も分かるね(事が事だから噂話が勝手に入ってくるかもだけど)

  12. 人間七七四年 | URL | -

    そういや細川家文章で光秀が細川家の足軽だったって記事が数年前に話題になってたような記憶があるけど、この多聞院日記でも中間と書いてあるね
    他にも古田織部も細川家の家臣だったと言う記述があったりとイマイチ信用できないなと思ってたが、細川家の軽輩だったのは間違いないのかな

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