322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/08(火) 01:11:02.18 ID:wsCVZqJm
越前国の故三河守(結城)秀康が、去る慶長十二年に逝去した砌、家中の年寄七人が金子を隠取したと云われた。
そしてこの事、去年幕府より公事が申し付けられた折、この七人の内の岡部伊予と云う者、江戸へ下って
この事を言上する旨を相催し、美濃国大垣まで下ったところで、「これほどの事が上聞に達するのは如何か」と
当三河守(松平忠直)并びに家中の年寄達が人を遣わし、大垣にて追いつき、かの伊予を呼び帰した。
然れども当年(慶長十七年)、この公事が無事に落着すると、かの伊予は江戸に下り、また牧主殿(牧野主殿助)
と云う者も、あの七人の一人であったが、岡部と同道して江戸に下ると申していたが、どうしたわけか
高野山に直に登ったという。
十月十九日、かの七人の内の久世但馬という者が、屋敷を攻められ生害した。彼の息子は加賀国に有ったが、
この時駆けつけて、但馬と共に死んだ。また但馬の聟も駆けつけて同じく死し、その他、但馬の屋敷に於いて、
侍分百五十人が死んだ。中間小者は、悉く十八日の晩に逃げ出したという。
この時、久世但馬の屋敷を攻めたのは本多伊豆守(富正)であった。これも先の七人の一人であった。
これについて松平忠直は、先ず当座は宥し、忠直より人質を遣わし、本多伊豆の居城である府中に
かの人質を置き、伊豆は北の庄に参り登城した。
伊豆の人数の内、能き者共がこの時二十八人討ち死にした。手負いは四十人余りであったという。
その他寄手は、多賀屋(多賀谷泰経)の者共を始め、総じて二百ばかり討ち死にしたという。
同二十日、弓木左衛門(七人の一人である)が生害した。この屋敷に於いても寄手は三十人ばかり死んだ。
この弓木は、故秀康の時、知行方専一の用人であった。
同日、上田隼人(これも七人の一人)は寄手に理を云い送り、その身ばかり腹を切り、被官たちは屋敷から出した。
そのため寄手は心安く屋敷の中に入ったが、そこには隼人家臣の侍五、六人が留まり居て、寄手と戦い、
これによって寄手も討ち死にした。
今村掃部、□□(不明)兵庫、右の理を言上すべく、二十五、六日ころに北の庄を立ち東国へと下った。
『当代記』
当代記より、越前騒動(久世騒動)についての記事
越前国の故三河守(結城)秀康が、去る慶長十二年に逝去した砌、家中の年寄七人が金子を隠取したと云われた。
そしてこの事、去年幕府より公事が申し付けられた折、この七人の内の岡部伊予と云う者、江戸へ下って
この事を言上する旨を相催し、美濃国大垣まで下ったところで、「これほどの事が上聞に達するのは如何か」と
当三河守(松平忠直)并びに家中の年寄達が人を遣わし、大垣にて追いつき、かの伊予を呼び帰した。
然れども当年(慶長十七年)、この公事が無事に落着すると、かの伊予は江戸に下り、また牧主殿(牧野主殿助)
と云う者も、あの七人の一人であったが、岡部と同道して江戸に下ると申していたが、どうしたわけか
高野山に直に登ったという。
十月十九日、かの七人の内の久世但馬という者が、屋敷を攻められ生害した。彼の息子は加賀国に有ったが、
この時駆けつけて、但馬と共に死んだ。また但馬の聟も駆けつけて同じく死し、その他、但馬の屋敷に於いて、
侍分百五十人が死んだ。中間小者は、悉く十八日の晩に逃げ出したという。
この時、久世但馬の屋敷を攻めたのは本多伊豆守(富正)であった。これも先の七人の一人であった。
これについて松平忠直は、先ず当座は宥し、忠直より人質を遣わし、本多伊豆の居城である府中に
かの人質を置き、伊豆は北の庄に参り登城した。
伊豆の人数の内、能き者共がこの時二十八人討ち死にした。手負いは四十人余りであったという。
その他寄手は、多賀屋(多賀谷泰経)の者共を始め、総じて二百ばかり討ち死にしたという。
同二十日、弓木左衛門(七人の一人である)が生害した。この屋敷に於いても寄手は三十人ばかり死んだ。
この弓木は、故秀康の時、知行方専一の用人であった。
同日、上田隼人(これも七人の一人)は寄手に理を云い送り、その身ばかり腹を切り、被官たちは屋敷から出した。
そのため寄手は心安く屋敷の中に入ったが、そこには隼人家臣の侍五、六人が留まり居て、寄手と戦い、
これによって寄手も討ち死にした。
今村掃部、□□(不明)兵庫、右の理を言上すべく、二十五、六日ころに北の庄を立ち東国へと下った。
『当代記』
当代記より、越前騒動(久世騒動)についての記事
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コメント
人間七七四年 | URL | -
忠直卿ってやたら悲劇の主人公扱いされることが多いけど、改易されて当たり前じゃん。首が飛ばなかっただけマシ。これじゃ幾ら秀康の息子だからって関係ない。徳川にしてみれば恥とも言うべき家中の治まらなさ。死人が出過ぎだ。よくもまあ、こんだけ荒れたこと。
( 2020年09月09日 08:35 )
人間七七四年 | URL | -
十代で跡を継いだばかりのタイミングで若当主を輔弼すべき重臣たちがコレってひどいな
( 2020年09月09日 13:40 )
人間七七四年 | URL | -
そうか秀康が亡くなった時、忠直わずか12歳か。
wiki kから
>関ヶ原の後、秀康は下総結城10万1,000石から越前北庄68万石に加増移封。秀康は自らの権力における旧族結城氏寄りの継承面をほぼ払拭することができた。
つまり10万石から68万石に加増される時に、かなり新しい家臣が入ったと。
彼ら家臣団の対立原因は何だったのか詳しい事情を知らないと越後騒動は見えてこないね。従来あまりにも秀康と家康の関係に固執した見方が多かった。家臣たち個々の家の歴史が分からないので推測も難しいが、互いにかなりの憤懣を抱えていたのは分かる。
( 2020年09月09日 15:40 )
人間七七四年 | URL | -
※3
確かに秀康は68万石て尾張の62万石より多い石高得てますよね。
それなりに家臣抱えないといけないですね。
御三家の場合、徳川家臣(尾張の成瀬、紀伊の安藤とか)だけでなく、大大名の重臣だった者(水戸の山野辺)も召し抱えて付けてますよね。
秀康の場合、結城家は名門でその家臣も歴史有るでしょうから気位高かったのでは?と思います。
で結城家は大きな大名ではなかったですから、68万石の大きな家廻すノウハウ無いでしょうし、結城家の古参家臣は使い難い家臣だったのではと愚考します。
( 2020年09月09日 18:47 )
人間七七四年 | URL | -
岡部・牧野・久世・本多と有能譜代を感じさせる名字にも関わらずこの体たらく
御三家の附家老は大体優秀だったが当然こういうリスクもあるわな
( 2020年09月09日 18:56 )
人間七七四年 | URL | -
※5
その本多(本多伊豆)て作左さんの甥の本多富正ですけど、自分の領地の府中経営も良かったし、越前騒動も居なかったたらもっと最悪の事態になっていたらしい位有能な評価だそうで。幕府も高く評価していて優遇されていたとか。
とか考えると忠直並びに越後(高田)騒動起こした子光長の資質が良く無かったのですかねえ?
( 2020年09月10日 18:11 )
人間七七四年 | URL | igMdCTSo
※5
久世但馬は、徳川譜代の久世ではなく、佐々成政の侍大将。
武名高き人物で、結城秀康が「久世の召し抱えは、越前の拝領、家康の感状と並ぶ喜び」
と言ったほど。
( 2020年10月02日 12:34 [Edit] )
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