548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/16(水) 23:25:16.98 ID:n0r3Rbm9
『岡田竹右衛門(正次)覚書』より、前編
(松平康親(左近、周防守)家臣の語ったことで、その覚えていることを記した記録。まとめにあるものは省いています)
・剛毅で鳴らした竹右衛門の初陣
永禄年中、三河東条の近所、横須賀というところに敵が屋敷を構えていた。竹右衛門が押し入ったところ、障子をあけた場所に木戸をつくり、侍2人が差し向かって弓で防いでいた。
竹右衛門が召し使っていた者1人がそこに走り入り、脇差しを抜いて木戸を押し破り、主従で踏み込み、弓を持った武者1人を竹右衛門が切り伏せ、首を取った。
竹右衛門は17歳、まだ権平次と名乗っていたときで、初陣の働きだった。
・姉川での手柄と秀吉
元亀元年夏、織田信長に越前衆が敵対し、近江において合戦があった。
家康が加勢し、松平左近もお供した。その陣で竹右衛門の弟、五味右衛門が馬上の敵と組み合ったとき、ともに馬から落ちた。
五味は若年だったので(落ちた地面で)下に組み敷かれてしまった。そこに竹右衛門は乗り寄せ、馬より飛び降り、上に乗っていた敵を引き破って下に組みふし、五味に世話をして討たせた。
そのとき竹右衛門は葦毛の馬に乗っていた。
太閤はそのとき藤吉郎秀吉と名乗っていたが、馬上30騎ほどで控えており、竹右衛門の働きを見ていた。
秀吉は使いをやって「あなたはどこの侍ですか」と尋ねてきたので、「家康麾下の松平左近家臣です」と答えた。
その後、帰陣し、秀吉が「上方」(山の上の寺の意か)で、「姉川合戦において葦毛の馬に乗って働いていた武者は名乗り出なさい。必ず召し抱える」と言い出した。
帰陣した家康は、竹右衛門が寺に登るべきかと尋ねると、父の伊賀守がこれを聞き、「譜代の主人を捨て、いかに大身になろうとも本意にあらず」と腹を立て、この申し出を受けなかった。
(上方はそのままの意味かもしれませんが、前後のつながりが不明)
・弟の死と倍返し
遠江浜松での合戦で、竹右衛門の弟、五味が討ち死にした。
その日、竹右衛門は同所におらず、この顛末を無念に思い、「この敵を討たなければ、二度と三河に帰らない」旨を仲間に堅く申し置き、ただ1騎にて久野前に出陣した。
すると、武田信玄方の武者が1騎、物見と思えたが、乗り出してきた。
竹右衛門はすぐに掛かり合い、敵を討ち、「五味のかたきを討った」と喜んで浜松に帰陣した。
「まれな働きである」と左近から褒美をいただいた。
・先にもありますが、やっぱりこの時代は騎馬で戦っていた
駿河へ家康が出陣したとき、先手を左近が命じられた。
安倍川の中程にて竹右衛門は敵に乗り向き、馬上より切り落とした。
その武者は切られて川下へ流されていったところ、服部小十郎という者に「その首を取りなさい」と言った。
小十郎に功名を取らせ、そのまま田中八幡山へ同道し、家康にお目見えした。
『岡田竹右衛門(正次)覚書』より、前編
(松平康親(左近、周防守)家臣の語ったことで、その覚えていることを記した記録。まとめにあるものは省いています)
・剛毅で鳴らした竹右衛門の初陣
永禄年中、三河東条の近所、横須賀というところに敵が屋敷を構えていた。竹右衛門が押し入ったところ、障子をあけた場所に木戸をつくり、侍2人が差し向かって弓で防いでいた。
竹右衛門が召し使っていた者1人がそこに走り入り、脇差しを抜いて木戸を押し破り、主従で踏み込み、弓を持った武者1人を竹右衛門が切り伏せ、首を取った。
竹右衛門は17歳、まだ権平次と名乗っていたときで、初陣の働きだった。
・姉川での手柄と秀吉
元亀元年夏、織田信長に越前衆が敵対し、近江において合戦があった。
家康が加勢し、松平左近もお供した。その陣で竹右衛門の弟、五味右衛門が馬上の敵と組み合ったとき、ともに馬から落ちた。
五味は若年だったので(落ちた地面で)下に組み敷かれてしまった。そこに竹右衛門は乗り寄せ、馬より飛び降り、上に乗っていた敵を引き破って下に組みふし、五味に世話をして討たせた。
そのとき竹右衛門は葦毛の馬に乗っていた。
太閤はそのとき藤吉郎秀吉と名乗っていたが、馬上30騎ほどで控えており、竹右衛門の働きを見ていた。
秀吉は使いをやって「あなたはどこの侍ですか」と尋ねてきたので、「家康麾下の松平左近家臣です」と答えた。
その後、帰陣し、秀吉が「上方」(山の上の寺の意か)で、「姉川合戦において葦毛の馬に乗って働いていた武者は名乗り出なさい。必ず召し抱える」と言い出した。
帰陣した家康は、竹右衛門が寺に登るべきかと尋ねると、父の伊賀守がこれを聞き、「譜代の主人を捨て、いかに大身になろうとも本意にあらず」と腹を立て、この申し出を受けなかった。
(上方はそのままの意味かもしれませんが、前後のつながりが不明)
・弟の死と倍返し
遠江浜松での合戦で、竹右衛門の弟、五味が討ち死にした。
その日、竹右衛門は同所におらず、この顛末を無念に思い、「この敵を討たなければ、二度と三河に帰らない」旨を仲間に堅く申し置き、ただ1騎にて久野前に出陣した。
すると、武田信玄方の武者が1騎、物見と思えたが、乗り出してきた。
竹右衛門はすぐに掛かり合い、敵を討ち、「五味のかたきを討った」と喜んで浜松に帰陣した。
「まれな働きである」と左近から褒美をいただいた。
・先にもありますが、やっぱりこの時代は騎馬で戦っていた
駿河へ家康が出陣したとき、先手を左近が命じられた。
安倍川の中程にて竹右衛門は敵に乗り向き、馬上より切り落とした。
その武者は切られて川下へ流されていったところ、服部小十郎という者に「その首を取りなさい」と言った。
小十郎に功名を取らせ、そのまま田中八幡山へ同道し、家康にお目見えした。
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コメント
人間七七四年 | URL | -
三河が一番すった揉んだしてる頃の英雄譚だな。戦国時代らしいエピソード。弟の仇を討つところがいい。
松平康親は東条松平の家老か。
岡田竹右衛門(正次)は東条松平家忠の家臣だろうか? 他のサイトを漁ったら、それらしいのが出て来た。
( 2020年09月17日 21:58 )
人間七七四年 | URL | -
服部小十郎って、服部半蔵正成の兄弟じゃなかったけ?
( 2020年09月19日 06:57 )
人間七七四年 | URL | -
※2
検索したら服部小十郎の名前はわずかにネットに出てくるものの、半蔵正成の弟かどうか分からなかった。出たのは文書受け取りのお使いをしていることくらい。服部家が後世改易の方向に進んだから記録が余り残ってないのか。
( 2020年09月20日 10:39 )
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