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『浅井一政自記』より、大坂城の混乱

2020年09月25日 17:50

353 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/09/25(金) 00:44:34.27 ID:C8PZ88rV
(前略。慶長十九年二月二十三日、片桐且元が登城しないことに対し、且元から理由を聞いてきた
浅井一政が大阪城に戻り)

御城に出て、小々姓を以て「御用が有るので、奥へ入れて下さい。」と申し上げたが、何とも御意が無く、
また重ねて申し上げると、秀頼公は既に座を立っておられ、この時我等は装束の間の縁に居たのだが、
帝鑑の間へ入るように言われ、我等は召し連れられ入った。この時あいは殿(饗庭局カ)に申して
「ここに誰もお入りにならないで下さい。あいは殿もそこに居られるべきでしょうか。」と申して、
その後秀頼に申し上げると、
「不慮の事が出来したとは、何事か?」と仰せになった

「市正(片桐且元)を成敗すると聞こえたため、彼は今日罷り出ず、屋敷に立てこもりました。」と申した所
「天道も照覧あれ、俺は知らない!」(天道も照覧あれ、おれハ不知)との御意であった。
そして「ではどうしたら良いとお前は思うか」と仰せになられたので、
「市正の心中について八右衛門に尋ねた所、市正は毛頭二心あるというような事は有りません。
周辺で悪しく御耳に立てられたものでは無いでしょうか。」と申し、「また市正からも承りましたが、
彼は人質を出すと申しております。これにて彼の心中も知れると思います。御手廻の衆を少々召し連れ、
市正の屋敷に行かれ、御頼まれるのが然るべしと考えます。
昔織田信長様のおとな(重臣)が謀反をされたとき、このようにされたと承っております。その上市正は
人質を出すと申しております。この上お疑いに成るような事では無いと考えます。」

そう申し上げると、暫くご思案されて
「しかしながら、市正の心中は知れぬ事である。またどうしたら良いと思うか?」
「この上は、只今御誓文によってその旨を書いて遣わし、市正の心中をお聞きになるべきです。」
「尤もである、であれば御書を遣わそう。」

そう仰せに成っている間に、御袋(淀殿)より追々に使いにて「奥へ入られるように。」と、お使いに
宮内卿、右京太夫が参った、そこで秀頼は帝鑑の間の奥と表の間の廊下に御出になられると。市正殿の
屋敷へ、下屋敷に引きも切らず人数が籠められている様子が目の下に見られた。

御書の内容について廊下にて我等と御相談遊ばし、白い文箱に入れられた。符は我等が付けた。
これを土肥少五郎に持たせ遣わした。返事を待って廊下に入られると、奥より
「心もとない。先ず奥に入られるように」と頻りにお使いがあった。我等も申し上げにくい
事であったが「このようなことは女房衆の存ずることでは有りません」(かやうの事ハ女房衆の存事
にてハ無之候)と申した所、秀頼は使いの者を尽くお叱りに成ったため、二度と使いは参らなかった。

354 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/09/25(金) 00:47:05.98 ID:C8PZ88rV
(中略。その後再び浅井一政らが且元の元に行き、且元邸に籠もっている軍勢と織田有楽邸に籠もっている
軍勢双方を撤退させることで同意したが)

市正殿の元に参ると、居間より奥、南の方の座敷に連れてお入りに成り、二心無き段々を仰せ聞いた様を
承り、その上で甲斐守と私の両人は御城へ参ると、焚き火の間の中の柱に秀頼はもたれて入られており、
大蔵卿、正永がその左の方に伺候していた。奥と表の間には菊の屏風が立って、御袋が入られ、
その返事を聞かれた。

「知っての通り、甲州(速水守久)は無口であるので、お主がまずあらましを申し上げ、その上で
様子を我等に詳しく申し上げるように。」
そう言われたため、私が市正殿の申したことを残らす申し上げた。そこで正永が脇より申した

「市正殿が屋敷に人数をお集めに成っているのは何事か」
私は答えた
「市正を御成敗有るという事を、彼の家来たちが聞きつけたため籠もっているのだと思われます。」
この事についてこの場では、特段のあしらいはなかった。秀頼は奥に入られたあと、槇島玄蕃を召され
「市正の心中を聞くことが出来、御満足であった」との事で、召して居られた呉服を我等だけに
下された。

八右、多羅尾半左衛門は芭蕉の間に参り、甲州、私を呼んで「只今御両人へ市正は申し上げた通り、
『御同心に於いては、今夜の内に有楽の屋敷に籠められている御人数を退去されますように。
市正屋敷に籠もっている者共も皆追い出します。この通り、御両人様(秀頼・淀殿)へ御意を得られます
ように。』と市正が申しております。この通り、秀頼が奥に居られるので、使いを以て申し上げられますように。」

ところがこの事を秀頼の耳に入れず、御袋より返事があり
「まず市正の人数を退去させ、その後有楽の所の人数を退去させる。」と仰せになった。
これを聞いた甲州は頭をかきながら「こんな事では何も成らぬ」と申した。
私は「『畏まりました』と申しておいて、同時に退去させれば良い。」と答えた。
「尤もである。ならばその通りに奥へ申し、市正にも返事をしよう。」ということに相済み、
また市正殿へは、甲州と私が検使に参り、有楽へは槇島玄蕃、永翁が参った。
これは二十三日夜のことであった。

『浅井一政自記』

片桐且元をめぐる大坂城の混乱の記録。これに対する淀殿周辺の介入に豊臣家中は相当苛立っていたようで



355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/25(金) 02:14:27.61 ID:M9a/G0h0
恐らく秀頼幼少の際は淀殿が家中差配をしてて、秀頼成人後そこの指示系統がややこしくなってる感じかな
そんだけ秀頼が頼りないと認識されていたか淀殿が出しゃばりすぎか

どうしたらいいと思う?って聞きすぎじゃねーかな秀頼、供廻りつけて直接聞きに行ったら?って提案スルーするし、略された所でもやたらどうしたらいいと思う連発してるんだっけ?
なんというか頼りなさげだなぁ、他家中でもこういう時こんなもんなのかね?

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/25(金) 08:56:19.58 ID:I+5YGX1a
清須会議みたいにドラマ化してほしいな
大坂の陣省略じゃ盛り上がりに欠けるからだめか
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    こんなんじゃ天下を治めるのは無理だ、と普通に思うだろうな。
    例えが何だけど、出来の悪い役所の係長とパートの仕事を見るようだ。>お袋様と秀頼公

  2. 人間七七四年 | URL | -

    お袋様と秀頼公は力を悟って言われたとおり大和に国替えしていればよかったな

  3. 人間七七四年 | URL | -

    天下どころか豊臣家中すらまともに制御出来ていないもんな…
    秀忠基準で言えば完全に改易案件でしょ

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ※3
    秀吉基準だったら120%改易だな
    皮肉なことだが

  5. 人間七七四年 | URL | -

    俗っぽく公式の場では推奨されない"おれ"という自称がこの時から、それも結構上の階級の人が使ってることが興味深い

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ※5
    確かに。二人称の変遷より一人称の変遷がわかる方が珍しいかも。
    「オレ」は地方によっては今もう鬼籍に入られたくらいの御婆さん方が使ってた。
    「ワシ」も同様に女性も、「オラ」も同じく。
    「オレ」「ワシ」は「ワレ」からか、「オラ」は「オレは」が「オラ」になったか。

    当時の「俺」の位置づけは中央では、どんなだったろう。女性は基本使わなかったろうか。
    尾張美濃辺りは基本男女とも「ワシ」を使ってました。

  7. 人間七七四年 | URL | -

    ※6
    うちの岩手のばあ様はオレっ娘だった

  8. 米5 | URL | -

    おれ 【俺・己・爾・】
    (2)自称。広く貴賤男女を問わず目上にも目下にも用いた。現代では、男子が、改まらない場面で同等もしくは目下に対して用いる。

    小学館日本国語大辞典より

    "おれ"は貴種でもふつうに使われてたみたいです

  9. 人間七七四年 | URL | -

    うちの婆さん(茨城中部、大正生まれ)もオレ(たまにオラ)だったな。

    「おれ」って古代は「お前」って意味(二人称、目下へ)だったのが、いつの間にか一人称になって、逆に「われ」に二人称用法が現れて今でも関西とか各地で使われている、という逆転現象があるんだよな。

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