620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/07(水) 23:36:29.82 ID:GcERk3uE
『武功雑記』より、雑記
・加藤清正と福島正則の不和
加藤清正より、福島正則に平野長元を遣わし申し入れようとしたのは「秀頼公のご恩をお忘れではないでしょう。そうであれば、わが軍の兵船があまたあるので、兵を乗せ、出船します。そのとき、福島殿も兵をあまた上らせてください。(途中に)家康の婿の池田輝政がいますが、押し攻め『フミツフシ』てしまえば、苦もないでしょう。そうなれば大坂までは『大道』を歩くよりも安心して進軍でえきるので、御意を得たい」という内容だった。
この件を申し入れる隙がなかったので、京都へ古田織部の茶会に正則が赴いたとき、長元も出向き、外露地で「卒度」(そっと)申し伝えると、正則は「いやいや、それがしは承知しがたい。家康公から大国を賜った厚恩は忘れがたい」と返事をした。
このことを長元が帰国して清正に伝えた。すると、清正は「福島はさてさて、ふがいない者だ」と腹を立て、清正と正則の仲が悪くなった。長元は平野長泰の弟である。(平野権兵衛から話を聞いた)
・島津維新の親父ギャグ
島津義久(ママ、義弘)は剃髪して維新と号した。大脇差を差し、樫の木の棒を常についていた。
あるとき、小姓たちが囲炉裏にて、火箸を焼いて慰みにしていたところに義久が現れ、小姓たちは驚いて火箸を灰の中に差し込んだ。
すると、義久は知らずに火箸を握ったが、少しも熱いという表情をせず、火をおこし、静かに灰の中に差し込んだ。
のちに西郷壱岐守に語ったのは「小姓どもが悪さをして手を焼かされている」といって、手を見せると「手ノ内焼フクレ」ていた。
・やはり面倒くさい三河武士(というより彦左)
永井善左衛門の邸宅へ板倉重宗が振る舞いに出向いた。相客は石谷十蔵、横田甚右衛門(尹松)、井上太左衛門、戸田半平、大久保彦左衛門(忠教)、今村九郎兵衛だった。
このとき、今村は鑓奉行、大久保は御旗奉行だった。
今村が言い出すには「それがしは小牧長久手のとき、人が十人で挙げるほどの手柄をどの鑓合戦の場所でも立てた。それなのに何のお褒めもなかったが、彦左はなにも優れた手柄がなかったのに、よい役職を得ているのはなぜだ?」と問うた。
彦左衛門が返答したのは「それがしは鬼神のごとくに聞こえたる岡部元信を長篠で切り落とし、本多主水に首を取らせた。そのほか『チクチク』(細々)としたことはあまたあるが、甲州者みたいなやつから逃げたことは功名なのか?」。
(元武田家臣の)横田はそれを聞いて、「それがしが(武田方として徳川軍の攻勢から)高天神城に籠城したのは運を開くためではなかった。勝頼が(後詰めに)同心しなかったので、仕方なく務めを果たし、どうしようもなくなれば敵を切り抜け、勝頼の元に参るという君臣のちぎりをかわしていたからだ」。
それに彦左衛門は『(城の)狭間くぐり』というのだ」。
横田は「何を言うか。三河者の頭の上を越えて活路を開いたのだ。手助けする者もいなかった」。
彦左衛門は「その(手柄の)ほかになにかあるのかねえ(何ソアルベキカヌ)」
横田は「(本能寺後の)蘆田小屋(春日城)でも前のように私こそ働いた」。
彦左衛門は「いかにも蘆田小屋では横田が逃げたとは聞かなんだ」。
横田は「これを聞かれよ。三河衆は『口ガワルクテ』人の武功に難癖をつける『意地ノアシキ』ことだと言われている。近藤石見守に起請文を書かせて語らせれば、有り体に話してくれるだろう」。
そのとき、板倉重宗は「みんなもう、老年なんだから、孫や子のことだけ考えていると思ったが、武功争いをしているのは近頃、珍しいことだ。若い者のためにもいいことだ。気が済むまで争ってください。とてもいいことですよ」。
その言葉で座敷は静まりかえった。
・信長と根来衆と餅と馬糞
根来を織田信長が天下(畿内)を取る3年前に通ったとき、根来の法師は信長が器量の大きな人と思っていた。
そこで大きな折を進上しようとをこしらえ、3つ進上した。
信長は馬上でそれを見て、「奇特である」と言い、折を開けて笄で餅を貫いて食べ、そのほかの折は「侍ども、食べるがいい」、大庭にぶちまけると、餅が馬糞の上に転び出た。
すると、どの侍もちょうだいして食べた。
その様子を根来の法師は見て、「位のある大将だ」と感じ入った。
その後、信長が天下を取って根来に軍事行動すると、かの人は怖じ気づき、さっそく降参した。
621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/08(木) 00:54:40.99 ID:ehS9sQ5G
この辺りから実像と違う通説の福島や加藤像とか信長像が若干できつつある感じしますね
622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/08(木) 01:32:01.01 ID:hneWQDBE
「甲州ものなどに、逃げたるが高名になりたるがあると云。」は
甲州の者で、逃げたのが武功であるかのようになってる者が居る(と謂われてる)な
「三河のものゝ頭の上をこえて通りしに、手さすものもなかりし」は
(狭間をくぐるようにこっそり逃げたのではなく)三河者の頭の上を越えて活路を開いたが、(三河者で)手を出してくる者もいなかったぞ
ではないかと
>岡部元信を長篠で切り落とし、本多主水に首を取らせた。
『三河物語』でも特記してる位の彦左衛門の(本当は)高天神城での自慢話のついでに
第二次高天神城攻防で脱出した横田をあてこすってるというのがこの話の流れかと
余談
「大久保党が徳川家裏切ったことがない」って話で大久保VS横田の第ニラウンド始める模様
『武功雑記』より、雑記
・加藤清正と福島正則の不和
加藤清正より、福島正則に平野長元を遣わし申し入れようとしたのは「秀頼公のご恩をお忘れではないでしょう。そうであれば、わが軍の兵船があまたあるので、兵を乗せ、出船します。そのとき、福島殿も兵をあまた上らせてください。(途中に)家康の婿の池田輝政がいますが、押し攻め『フミツフシ』てしまえば、苦もないでしょう。そうなれば大坂までは『大道』を歩くよりも安心して進軍でえきるので、御意を得たい」という内容だった。
この件を申し入れる隙がなかったので、京都へ古田織部の茶会に正則が赴いたとき、長元も出向き、外露地で「卒度」(そっと)申し伝えると、正則は「いやいや、それがしは承知しがたい。家康公から大国を賜った厚恩は忘れがたい」と返事をした。
このことを長元が帰国して清正に伝えた。すると、清正は「福島はさてさて、ふがいない者だ」と腹を立て、清正と正則の仲が悪くなった。長元は平野長泰の弟である。(平野権兵衛から話を聞いた)
・島津維新の親父ギャグ
島津義久(ママ、義弘)は剃髪して維新と号した。大脇差を差し、樫の木の棒を常についていた。
あるとき、小姓たちが囲炉裏にて、火箸を焼いて慰みにしていたところに義久が現れ、小姓たちは驚いて火箸を灰の中に差し込んだ。
すると、義久は知らずに火箸を握ったが、少しも熱いという表情をせず、火をおこし、静かに灰の中に差し込んだ。
のちに西郷壱岐守に語ったのは「小姓どもが悪さをして手を焼かされている」といって、手を見せると「手ノ内焼フクレ」ていた。
・やはり面倒くさい三河武士(というより彦左)
永井善左衛門の邸宅へ板倉重宗が振る舞いに出向いた。相客は石谷十蔵、横田甚右衛門(尹松)、井上太左衛門、戸田半平、大久保彦左衛門(忠教)、今村九郎兵衛だった。
このとき、今村は鑓奉行、大久保は御旗奉行だった。
今村が言い出すには「それがしは小牧長久手のとき、人が十人で挙げるほどの手柄をどの鑓合戦の場所でも立てた。それなのに何のお褒めもなかったが、彦左はなにも優れた手柄がなかったのに、よい役職を得ているのはなぜだ?」と問うた。
彦左衛門が返答したのは「それがしは鬼神のごとくに聞こえたる岡部元信を長篠で切り落とし、本多主水に首を取らせた。そのほか『チクチク』(細々)としたことはあまたあるが、甲州者みたいなやつから逃げたことは功名なのか?」。
(元武田家臣の)横田はそれを聞いて、「それがしが(武田方として徳川軍の攻勢から)高天神城に籠城したのは運を開くためではなかった。勝頼が(後詰めに)同心しなかったので、仕方なく務めを果たし、どうしようもなくなれば敵を切り抜け、勝頼の元に参るという君臣のちぎりをかわしていたからだ」。
それに彦左衛門は『(城の)狭間くぐり』というのだ」。
横田は「何を言うか。三河者の頭の上を越えて活路を開いたのだ。手助けする者もいなかった」。
彦左衛門は「その(手柄の)ほかになにかあるのかねえ(何ソアルベキカヌ)」
横田は「(本能寺後の)蘆田小屋(春日城)でも前のように私こそ働いた」。
彦左衛門は「いかにも蘆田小屋では横田が逃げたとは聞かなんだ」。
横田は「これを聞かれよ。三河衆は『口ガワルクテ』人の武功に難癖をつける『意地ノアシキ』ことだと言われている。近藤石見守に起請文を書かせて語らせれば、有り体に話してくれるだろう」。
そのとき、板倉重宗は「みんなもう、老年なんだから、孫や子のことだけ考えていると思ったが、武功争いをしているのは近頃、珍しいことだ。若い者のためにもいいことだ。気が済むまで争ってください。とてもいいことですよ」。
その言葉で座敷は静まりかえった。
・信長と根来衆と餅と馬糞
根来を織田信長が天下(畿内)を取る3年前に通ったとき、根来の法師は信長が器量の大きな人と思っていた。
そこで大きな折を進上しようとをこしらえ、3つ進上した。
信長は馬上でそれを見て、「奇特である」と言い、折を開けて笄で餅を貫いて食べ、そのほかの折は「侍ども、食べるがいい」、大庭にぶちまけると、餅が馬糞の上に転び出た。
すると、どの侍もちょうだいして食べた。
その様子を根来の法師は見て、「位のある大将だ」と感じ入った。
その後、信長が天下を取って根来に軍事行動すると、かの人は怖じ気づき、さっそく降参した。
621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/08(木) 00:54:40.99 ID:ehS9sQ5G
この辺りから実像と違う通説の福島や加藤像とか信長像が若干できつつある感じしますね
622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/08(木) 01:32:01.01 ID:hneWQDBE
「甲州ものなどに、逃げたるが高名になりたるがあると云。」は
甲州の者で、逃げたのが武功であるかのようになってる者が居る(と謂われてる)な
「三河のものゝ頭の上をこえて通りしに、手さすものもなかりし」は
(狭間をくぐるようにこっそり逃げたのではなく)三河者の頭の上を越えて活路を開いたが、(三河者で)手を出してくる者もいなかったぞ
ではないかと
>岡部元信を長篠で切り落とし、本多主水に首を取らせた。
『三河物語』でも特記してる位の彦左衛門の(本当は)高天神城での自慢話のついでに
第二次高天神城攻防で脱出した横田をあてこすってるというのがこの話の流れかと
余談
「大久保党が徳川家裏切ったことがない」って話で大久保VS横田の第ニラウンド始める模様
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コメント
人間七七四年 | URL | -
加藤嘉明にしろ島津義弘にしろ火箸の元ネタは何なんだろうな
細川幽斎の話と言いイタズラの道具になりやすいな火箸
( 2020年10月08日 18:11 )
人間七七四年 | URL | -
清正「ワシが虎を退治したなどと…尾ヒレにも程がある」
市松「わしの酒癖が悪いのも後世の通説よ」
( 2020年10月08日 18:34 )
人間七七四年 | URL | -
こんなカッコいいオヤジギャグ初めて見たw
( 2020年10月08日 20:33 )
人間七七四年 | URL | -
年寄の冷や水ならぬ、年寄に冷水を浴びせた手本のようなw = 板倉重宗
傍で小姓仕えでもしてたら肩が震えそう。
前段の自慢話も面白い。上手い役者の映像で見てみたい。
( 2020年10月08日 21:45 )
人間七七四年 | URL | -
>大庭にぶちまけると、餅が馬糞の上に転び出た。
>すると、どの侍もちょうだいして食べた
=位のある大将
この価値観が今一つ理解できないな。
または、「位のある」この意味は何だろう。直訳で身分が高い、風格がある
だが、品位があるには断じてならないような、この時代は違ったのか。
もったいないってのは、江戸時代の百姓文化からかしらん。
( 2020年10月08日 22:58 )
人間七七四年 | URL | -
人間、誰だって馬糞の上に落ちた餅は食いたくないでしょう
それを躊躇なく食わせる威厳があったということでは?
宣教師の記録とも合致する、信長による家臣団 への統制っぷり
( 2020年10月08日 23:53 )
人間七七四年 | URL | -
荒木村重が信長には逆らいませんという意思表示のため?
信長が刀に刺して差し出した餅だか饅頭を平然と平らげた話みたいな
( 2020年10月09日 12:40 )
人間七七四年 | URL | -
威厳がある、家臣に畏怖されてるって意味でしょうな。
源頼朝が石橋山の戦いに破れて千葉に逃げてきた時、上総広常が2万の大軍を引き連れて合流したのを「遅刻」と叱って最後尾に配置したのを上総広常自身はかえって「この大将は豪気だ」と喜んだとか、
平将門に対面した藤原秀郷が饗宴の席で将門が汁をこぼしたのを部下に拭かせず、咄嗟に自分で拭き清めたのを見て「コイツ小者だわ」と討伐側に回る決意をした、
って話と似てる気がします。
( 2020年10月09日 15:20 )
人間七七四年 | URL | -
人を使うというのは偉そうに思えますが、見方を変えるとどんな人にも仕事を与える=手柄をたてるチャンスを与えて居るとも見れますね
東洋は面積の割に人口が多いので、そういう君主が求められて居たのでしょう。江戸城で左右の襖を開ける約がそれぞれ一人ずつ居たのも今では馬鹿にされますが、当時としては大真面目に仕事を割り振ったのでしょうね
( 2020年10月09日 16:22 )
人間七七四年 | URL | -
威厳、畏怖される、軍の統制 = 位のある
すとんと落ちました。みなさま有り難う。
( 2020年10月09日 18:41 )
人間七七四年 | URL | -
維新さんギャグのために身体をはりすぎっすよ…
( 2020年10月15日 04:27 )
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