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足利義輝に対する正月の進物儀礼

2020年10月10日 16:04

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/10(土) 00:43:35.73 ID:p7Z90aGV
本年(1565・永禄八年)の日本の新年は、我々の暦の二月一日に当たる。
当国各地においては、月の九日より十五日、又は二十日まで、諸侯は国王を訪問し。進物を献ずる
習慣であり、特に都においては、公方様(足利義輝)は至高の皇帝である故に、この習慣を守っていた。

公方様を訪問する者は、彼に服従しているわけではないが、みな高貴なる諸侯、又は身分高き坊主であり、
その際には各人、我が国の紙に比べて甚だ大きい紙(杉原紙)十帖と金扇を携帯するのが、古来の習慣
である。これらは献上の後、武士である僕がこれを受け取るのが例である。
そして公方様の母、及び后を同様に訪問し、或いは高価なる品、及び武器を献ずる者もある。

王は何人に対しても一言も発せず、ただ収入、及び所領多き数人の坊主に対し、少しばかりその手に
携えた扇を傾けるのみであった。

公方様を訪問出来るのは、その地位の名誉あり、また尊貴なるに因る。身分低き者は、たとえ黄金の家を
贈ったとしても訪問を許されることはない。
パードレ・ガスパル・ピレラはキリシタンたちの幸福のため、并びに異教徒がデウスの教えを軽蔑しない為に、
公方様を訪問する必要があった。また、これを成すことにより、パードレは公方様の保護を受けるに至る
ためにも、一人の大身の武士を介して、年頭にあたって拝謁をした。この人(大身)はおおいに
キリシタンに成ることを望んでいたが、戦争の際殺された。

日本人は外形を整えていなければ、その人を崇敬しないが故に、パードレはこの際、平常のごとくに
していては宮廷に入ることを許されず、主の栄光とキリシタンの幸福のため盛装をする必要があった。
最初の二回の訪問には。法衣と袈裟を着け、頭には朱頭巾を被ったが、他の二回はキモノを着し、
その上にポルトガルの羅紗のマントを着た。

『一五六五年三月六日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

足利義輝に対する正月の進物儀礼について



624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/10(土) 08:31:38.87 ID:CvXxK6f+
旧正月か
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    パードレたち、和装僧形になったのか。しかもキンキラキンのやつ?
    それに羅紗マントとか。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ※本スレ624
    そりゃ当時の日本は旧暦だし。
    なお、欧州も1582年はグレゴリオ暦に移行する為10月4日の翌日は15日になってます。(但しカトリック教国のみでギリシャ正教系やプロテスタント系はずっと後)
    日本もその年は信長が改暦しようとしていた様で本能寺の変の朝廷黒幕説の理由にされていたりしますが。(まあ与太だか)

  3. 人間七七四年 | URL | -

    仲介役の大身は和田惟政だったりするのかな
    信長にフロイスを紹介したのは惟政だったが

  4. 人間七七四年 | URL | -

    儀礼用の司祭服であるChasubleを着用したのでは
    それを翻訳者が袈裟と訳したのではとおもう。
    他の2回に出てくるマントとの整合性だが
    司祭が儀礼用マントMantleを使用するのはビザンツや東方正教会とかみたいだし
    西洋風の普通のラシャマントを羽織ったように思える

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    画像検索して楽しんだ。
    結構豪華で目の保養に。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ヨシテル様には取り敢えずよく斬れそうな刀でも贈っとけばいいだろ

  7. 人間七七四年 | URL | -

    >当国各地においては、月の九日より十五日、又は二十日まで、諸侯は国王を訪問し。進物を献ずる

    よくよむと今でいう七草までは訪問しないのが礼儀だったのね
    内輪(家庭内)で寿ぐのが君臣の礼儀よりも優先?

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