673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/25(日) 01:25:47.09 ID:TcotcfKQ
しかるに土岐一族の明智日向守光秀は弘治2年(1556)の秋に当国(美濃)を出てその翌年より
6ヶ年の間、国々を遍歴してその後に織田信長公に仕え、15年の内に68万石を領した。もっとも
智謀軍慮を兼ね備えていた徳である。
しかるに、主君の信長公は元来良智の大将なので、折に触れ時に寄せて光秀を召され諸々の事を尋ね
給う。しかしながら光秀は、一度もその問いの趣を知らないということがなかった。
ある時に織田殿が光秀に尋ね給うには、「汝は諸国を修行したので、およそその国の人の風俗の善悪
を知っていることだろう。どの国は善であるのか、かつどの国は悪いのか、その心を見たるところが
あらば、語り聞かせよ」と宣う。その時に光秀はあらまし国々の人風を言上するに及ぶことがあった。
しかしながら光秀は諸国修行を志してその国を領する太守の政道、将の心持ち、家中の諸士の剛臆を
見て、仕官を志していた故に人風を知るはずもなくとも、少しずつ日を重ねて逗留する内にその地の
人に接して察しただけである。しかしその察したことが、格別(信長の望むところと)相違していな
かったところは、もっとも御感あったことであった。
中でも美濃国は光秀の生国なれば、風俗の良き国と言うのも如何なものかと(信長へは)申し上げな
かったものの、元来濃州は代々良将の住む国故、おのずと人風もよろしき国であると(光秀は)家臣
などへ話したのだという。
これによって古は知らないが、近代に濃州より出でてその名をいささか知られた武士について、あら
ましを挙げきれない。もっとも土岐・斎藤の一族だけに限ったことではない。
明智日向守光秀、蜂屋出羽守頼隆、妻木長門守忠頼(省略。美濃出身の武士を列挙)この他に当国よ
り出でて大家に仕官の面々は数多ありといえども、際限なきによりあらましはここまでを記した。
――『美濃国諸旧記』
しかるに土岐一族の明智日向守光秀は弘治2年(1556)の秋に当国(美濃)を出てその翌年より
6ヶ年の間、国々を遍歴してその後に織田信長公に仕え、15年の内に68万石を領した。もっとも
智謀軍慮を兼ね備えていた徳である。
しかるに、主君の信長公は元来良智の大将なので、折に触れ時に寄せて光秀を召され諸々の事を尋ね
給う。しかしながら光秀は、一度もその問いの趣を知らないということがなかった。
ある時に織田殿が光秀に尋ね給うには、「汝は諸国を修行したので、およそその国の人の風俗の善悪
を知っていることだろう。どの国は善であるのか、かつどの国は悪いのか、その心を見たるところが
あらば、語り聞かせよ」と宣う。その時に光秀はあらまし国々の人風を言上するに及ぶことがあった。
しかしながら光秀は諸国修行を志してその国を領する太守の政道、将の心持ち、家中の諸士の剛臆を
見て、仕官を志していた故に人風を知るはずもなくとも、少しずつ日を重ねて逗留する内にその地の
人に接して察しただけである。しかしその察したことが、格別(信長の望むところと)相違していな
かったところは、もっとも御感あったことであった。
中でも美濃国は光秀の生国なれば、風俗の良き国と言うのも如何なものかと(信長へは)申し上げな
かったものの、元来濃州は代々良将の住む国故、おのずと人風もよろしき国であると(光秀は)家臣
などへ話したのだという。
これによって古は知らないが、近代に濃州より出でてその名をいささか知られた武士について、あら
ましを挙げきれない。もっとも土岐・斎藤の一族だけに限ったことではない。
明智日向守光秀、蜂屋出羽守頼隆、妻木長門守忠頼(省略。美濃出身の武士を列挙)この他に当国よ
り出でて大家に仕官の面々は数多ありといえども、際限なきによりあらましはここまでを記した。
――『美濃国諸旧記』
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コメント
人間七七四年 | URL | sSHoJftA
美濃は人国記でも割と評価が高かったような
( 2020年10月27日 01:10 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
あの辺りはもともと要地でもあるからな
( 2020年10月27日 08:36 )
人間七七四年 | URL | -
美濃、現在の岐阜は産業が発達を続けているとは言えず、財政状況が良いとは言えない。でもここ、昔から文芸にとても秀でている。現在もそう。
( 2020年10月27日 19:20 )
人間七七四年 | URL | -
※3
東常縁と斎藤妙椿とかかな
ちょっと戦国時代と言うには古すぎか
( 2020年10月27日 21:43 )
人間七七四年 | URL | -
※4
斎藤妙椿については不勉強です。すみません。
古今伝授で有名な東常縁の東氏は美濃随一の文化人の家系として、岐阜の中ほど、くびれの西の端辺りを治めていました。宗祇に古今伝授をしたのは常縁ですが、後年、宗祇の一番弟子の宗長が今際の際に古今伝授をしたのが素純で、彼は東常縁の孫と言われ、これは「お返し伝授」と言われています。
岐阜には奥の細道むすびの地記念館があり、県や市の文芸祭には連歌の部門があり、今なお連歌が盛んな土地でもあります。
因に、遠藤氏に滅ぼされた東氏ですが、最後の当主の東常垚は帰雲の城中で、天正13年11月、地震の災害によって亡くなっています。
( 2020年10月28日 19:58 )
人間七七四年 | URL | -
斎藤妙椿と東常縁の話、過去スレに出ていましたね。コメ欄に帰雲城の顛末も。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2172.html
これも既出かも知れませんが、またスレと大きく離れますが、賢妻で名高い山内一豊の妻の千代は、郡上八幡では昔から東氏を追い出した遠藤盛数の娘と言われています。千代の母の父が東常縁の孫。つまり見性院自身も東常縁の血を引くと考えられます。
( 2020年10月28日 20:17 )
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