674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/27(火) 00:30:24.00 ID:AXIGWCDj
永禄十二年(1569)四月二日
織田弾正忠(信長)の所へ罷り向かった所、留守であったので二条城の普請を見物して帰った。
石垣三重は悉く出来上がり、また南巽のだしの石垣も出来、今は東のだしについて、少々出来ている。
この方にあった近衛の敷地は、悉く奉公衆の屋敷となった。不運の至である。
織田信長の使いの木下藤吉郎が岡殿の所へ参ったので、私も参った。丹州の知行、佐伯の南北両庄について、
細川右馬頭が代官職を内藤五郎に渡さないため、この内藤に、木下が相添えてこれを進め、代官を
仰せ付けると申したことで、近く両人に様々に問答を加え、この両庄より八十石を岡殿に進納することに
定まったという。羨ましい事である(御浦山敷事也)
藤吉郎と対面し、盃を下した。
(言継卿記)
義昭二条城普請の様子と、当時の秀吉の働きの一端について
永禄十二年(1569)四月二日
織田弾正忠(信長)の所へ罷り向かった所、留守であったので二条城の普請を見物して帰った。
石垣三重は悉く出来上がり、また南巽のだしの石垣も出来、今は東のだしについて、少々出来ている。
この方にあった近衛の敷地は、悉く奉公衆の屋敷となった。不運の至である。
織田信長の使いの木下藤吉郎が岡殿の所へ参ったので、私も参った。丹州の知行、佐伯の南北両庄について、
細川右馬頭が代官職を内藤五郎に渡さないため、この内藤に、木下が相添えてこれを進め、代官を
仰せ付けると申したことで、近く両人に様々に問答を加え、この両庄より八十石を岡殿に進納することに
定まったという。羨ましい事である(御浦山敷事也)
藤吉郎と対面し、盃を下した。
(言継卿記)
義昭二条城普請の様子と、当時の秀吉の働きの一端について
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コメント
人間七七四年 | URL | -
この頃にはもう近衛は追放され済み?
( 2020年10月27日 23:43 )
人間七七四年 | URL | -
二条城が普請されたのは義昭追放後なんで近衛は丁度京都に戻る直前ぐらいか
( 2020年10月28日 15:50 )
名無しさん | URL | -
ちょうど大河で今やってる話のころか
( 2020年10月28日 21:43 )
人間七七四年 | URL | -
近衛さんは信長アンチなんじゃなくて義昭アンチなんだよね
だから近衛がいなくなったら信長にすまんすまんて言って京に戻ってる
( 2020年10月29日 07:24 )
人間七七四年 | URL | -
そもそも近衛さんと信長と対立要素ないしな、それに家康の伝手あるし
( 2020年10月29日 18:10 )
名無しさん | URL | -
この右馬の頭は細川藤賢か岡殿って誰かと思って調べたら、覚音女王か
内藤五郎がよくわからん、丹波守護代の内藤氏の一族か、ボンバーマンの甥っ子のジョアンあたりかね
で、これ秀吉が酒を賜った話か、岡殿じゃ誰かわからんよ
( 2020年10月31日 16:40 )
人間七七四年 | URL | -
内藤五郎は「内藤五郎貞弘」と署名する同時期の請状写があるのでジョアンで間違いないよん
( 2020年11月01日 17:34 )
名無しさん | URL | -
それは知らなかったありがとう
( 2020年11月01日 22:11 )
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