fc2ブログ

朝山日乗について

2020年11月05日 18:18

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/05(木) 16:42:15.50 ID:rOtplAZH
朝山日乗は、『禁中の御殿が破壊したことの、御修理の営みを勤めよ』との夢のお告げに任せ、重大の知行、
相伝の家人をも打ち捨てて、出雲国より侘びしき体にて上京し、近衛龍山(前久)公に対し、その旨を
望んだ所、正親町天皇の勅によって参内し、御修理の営みを催した。

この話を織田信長公お聞きになり、その志の妙なるを感じられ、召し出され一両年も試みに使われた所、
美しい心映えであり、何事につけてもはかどって行う者であるとして、旧功の村井長門同然に、禁中方の
御修理を仰せ付けになった。そして万事、流れる水のように仕事が進んだ事で、山城国西院にて、
三千貫の地を下された。これは小泉という者は、勘当を蒙り牢人と成った跡職であったのを、その小泉の
家人たちも含めて恩賜されたのである。

甫庵太閤記

朝山日乗について



680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/06(金) 07:32:35.54 ID:8HRlh5Fr
いかに口上手でもデウスの前では無意味である

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/06(金) 07:47:17.39 ID:ipTx84SS
フロイス「日乗は日本のアンチキリスト、又は肉体に宿りたるルシフェル」

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/06(金) 09:51:10.17 ID:8HRlh5Fr
サタンではなくルシフェルと言ってるのが最高の賛辞だね


※管理人注

この投稿は、早稲田大学・松本和也氏の論文『イエズス会宣教師が見た中近世移行期日本の国王と国家』内、
『第一部 第五章 日乗の後半生』の抜粋と成っています。
内容は早稲田大学リポジトリより読むことが出来ます。内容をしっかり確かめたい方はこちらをご覧下さい
PDF注意
https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=10862&file_id=20&file_no=10


443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/07(土) 01:41:21.26 ID:fCwnJg7j
はじめに永禄・元亀年間の畿内情勢を考察する際、必ずといってよいほど登場する人物が日乗である。
日乗の活躍する時期は、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄一一年から、義昭を追放する天正元年頃までである。その間、禁裏修理奉行や毛利への使者として活躍している。
また、信長は義昭との関係が悪化すると、永禄一三年に条書を発して義昭を詰問しているが、その宛所に日乗の名が登場する。
この条書は極めて重要な文書であるだけに、当時日乗がいかに重用されていたかが読み取れるだろう。このことは、同時期の畿内キリシタン史にも当てはまる。
永禄八年に伴天連追放の女房奉書が出され、イエズス会宣教師は京都退去を余儀なくされた。
永禄一二年、和田惟政の仲介によって京都復帰が実現したものの、以後も反キリシタン一派による執拗な妨害を受けている。その中心人物が日乗であった。
日乗は信長の面前でフロイスと宗論を行い、また信長や義昭に宣教師の追放を進言した。結局両者からはその許可は得られなかったが、天皇からは伴天連追放の綸旨を獲得している。
この事柄をとってみても、永禄一二年頃の畿内キリシタン史を考える際、日乗抜きで語ることはできないのである。


しくじり日乗上人の巻

〇元亀元年一一月四日付、ルイス・フロイス書翰
和田殿が信長からの勘当が解けてから五、六日後、彼に対して虚偽の訴えを行った、かの仏僧日乗は神の正当なる裁きにより、他の人々から彼が犯した重大な罪について訴えられました。
信長はこれを知って激怒し、多くの領主の前で彼を罵った後、足蹴にして追い出すよう命じました。彼は青ざめ、すぐさまその場から立ち去りました。
彼はそれまで有していた役職を奪われ、その後、縁故や懇願により、また、特に内裏の宮殿を再建するため彼に託した多額の金銭に関する報告がない間は、彼が逃げないように、信長は彼に対して素知らぬふりをしました。
彼は今も宮廷内におりますが、気にも留められておりません。

〇『言継卿記』永禄一三年三月二一日条
禁中御作事見舞了、日乗上人信長之勘気之由風聞有之如何、尚可尋之

公家衆の中でもとりわけ日乗と昵懇の仲であった山科言継は、日乗が信長から処罰されるかどうか気に掛けている。
「風聞有之」の文言が、信長が多くの家臣等の面前で日乗を叱責したというフロイスの記事に信憑性を持たせる。

天正元年に入って間もない頃は、義昭への使者として活躍するが、義昭追放後は毛利への使者や丹波国山国荘の入部に日乗の名が登場するに留まる。

※信長の寵を失って失脚したというのは誤りである。

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/07(土) 01:41:50.04 ID:fCwnJg7j
上人じゃなくなるの巻

〇『御湯殿上日記』天正三年三月二五日条
信長より日乗きようてうをしよくするほとに、てんさいといふへきと申入候

〇『宣教卿記』同日条
廿五日子天晴一、信長三大・勧大へ日乗上人ト云義イハレヌヨシ在之、各儀アラタメテ典済可然之由信長被申也、各尤之由申也、
使者始祐閑、後ニハ明知・五郎左衛門・塙九・祐閑四人 ニテ 三大へ被申也

※三大は三条西実枝、勧大は勧修寺晴右

〇『言経卿記』天正四年正月五日条
「典斎 日乗事也、」

〇『宣教卿記』天正三年三月二八日条
廿八日卯雨下、従七時分大雨也、一、二条殿へ御樽進上スル也、幡磨ノタチノムスメヲサゴノ御方、前ハ公方ノ上臈也、
今度信長ムスメ ニシテ、 二条殿御方御所へ進上也、警固ノ衆村井民部・日乗御供也、三献参也、御はいせんスル也、夜也

関白二条晴良の息昭実の嫁娶の記事である。 「ヲサゴノ御方」が信長の養女として嫁ぐことになり、その嫁入の警固として村井貞勝と日乗の名が挙げられている。

天正三年三月二五日に日乗は信長から「典済」と改めるように指示される。
三月二五日まで表記のほとんどが「日乗上人」とあり、「上人」という文言が必ずといってよいほど記されていた。しかし、それ以降は「上人」が全く用いられてない。
その後「朝山三位法印日乗」「典 三位法印 斎日乗」(『言継卿記』)・「日乗三位」(『宣教卿記』)と書かれている。
『宣教卿記』天正三年七月二〇日条の「日乗三位」が初見であるが、いつ三位法印となったかは不明である。
天正三年七月三日に信長が正親町天皇の官位昇叙の勧めを辞退し、家臣の任官を奏請しているので、このときに賜ったか?
※松井友閑が宮内卿法印、武井夕庵が二位法印


いつの間にか死んでたの巻

〇天正六年三月二日付、オルガンティーノ書翰
都地方のキリシタン教界の諸事はよく進展しており、今年約二千人をキリシタンにしました。すでにキリシタンとなった者は大いに利益を得ております。
コンスタンチィノや他のキリシタン達が強くせがむため、私は今尾張国に向かう道中にあります。私はかの国のキリシタンが利益を得ることを主(なるデウス)に期待しております。
もし美濃国で説教する機会があれば、私達は必ず主の御名において網を投じるでしょう。尊師フロイスが信長の前で宗論を行った日乗上人は先日死去しました 。

※『朝山家系図』によると没年月日は天正五年九月一五日となっている。


総括
元亀元年一一月四日付、ルイス・フロイス書翰の日乗追放として理解されてきた記事は、後半部分にその後も禁裏に出入りしていることが記されており、信長から追放されたのではなかった。
日乗が信長のもとから追放されたかのように記されているのは、フロイスが日乗に敵意をもっていたからであり、フロイスの誇張癖の範疇と捉えるべきである。



685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/06(金) 19:46:27.34 ID:FyEF9E1t
>>679
怪しい男だよなこいつも
尼子家臣だったのに京に逃げて近衛に気に入られるとかどういうことなんだか
スポンサーサイト





コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    トラックバック

    この記事のトラックバックURL
    http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/12740-9486a969
    この記事へのトラックバック