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志賀の陣の様相

2020年11月07日 17:41

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/07(土) 17:17:59.84 ID:y38pgAVu
我等は当面の難破を逃れ、少しく静穏であることを得たが、それから一ヶ月を経ずに突然、更に激烈な
暴風が起こった。
即ち、信長が都に来た時、彼のために亡ぼされた二人の王(朝倉義景浅井長政)が急遽軍隊を集め、
その国に帰るに先立って、これを殺さんと図ったのである。

信長は既に軍兵を帰らして、当地にはただ一万三千人を留めていたが、彼はこの事を聞くと、即夜出発し、
翌日(九月二十四日)未明、当地より4レグワにして、坂本と称し、コーチンより少し小さな町に於いて
彼等を待ち受けた。

敵は六万にして、皆甚だ良き金の武具を着し、甚だ高き山に上った。同所には五百の僧院より成る、比叡の山の
大学が在った。
彼等の軍隊は山中に、信長は山麓に在って、既に一ヶ月を経過した。
寒気、風雪、霰雹甚だしく、風も又寒冷であり、ただ寒気の為に死す者、双方甚だ多かった。

敵は都の周囲、多数の村落を焼き、市内の混乱、不安甚だしく、一ヶ月以上、最後の審判の様相を呈していた。
何故ならば、勝利が何れに帰すべきか知ることを得ず、信長が敗戦すれば、直ぐにこの市(京都)は焼かれ、
的に蹂躙されるために、市民は、或いは山上に穴を掘り、或いは街路に逆茂木を設け、また家財を隠匿し、
或いは妻子を市外に出した。

而も、市を出れば直ぐに盗賊に襲われ、又は敵に殺された。
夜警、叫喚、警鐘、突撃、等、実に憐れなることばかりであった。

(一五七〇年十二月一日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰)

いわゆる志賀の陣の様子について。



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    >>ただ寒気の為に死す者、双方甚だ多かった

    やっぱ寒中対陣だとそういう被害が大きいんだな。信長は屋外に陣を敷いているので仕方ないが、比叡山に入った浅井朝倉軍にも被害出たのか。比叡山は宿坊とか貸さなかったのか、軍勢が多すぎて収納しきれなかったのか

  2. 人間七七四年 | URL | -

    僧舎は坊主や寺侍だけでなくその家族も住んでただろうから浅井朝倉も下っぱ武士は野宿だったのかも
    キツいなぁ

  3. 人間七七四年 | URL | -

    日本側の記録や軍記には戦死以外の死因は余程のことがない限り書かれないだろうしやっぱりこういう死に方も多かったんだなぁと認識する意味で海外の書簡は貴重だな

  4. 人間七七四年 | URL | -

    今やってるアルメニア・アゼルバイジャン戦争でも、本格的な冬が来る前に決着つけようとアゼルバイジャン軍が要塞線に正面から無理攻め始めてるしな。
    冬場の対陣なんか現代軍隊でも地獄やで。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    市民の様子の描写も貴重。
    >或いは山上に穴を掘り
    大戦中の防空壕の跡だけでなく、妙なところに洞穴があったりするのって案外こうした時代からあるのかも。元からあった人為的な穴を広げて防空壕にしたと聞くこともあるし。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    信長が一番苦しめられた戦い候補1やね

  7. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    確かに洋の東西問わず基本的に当時は冬戦争しなかったかと。
    当時(16,17世紀)欧州の傭兵には学生も居て、兵士てより軍の書記して居た様ですが、春から秋は軍で働いて学費を稼いで冬は大学に戻って勉強していたとか。
    まあ謙信みたいに冬は関東に出兵して北条と戦ったり、中国だと南北朝時代は騎兵は暑さに弱いので江南で戦うのは冬季みてのも有りますが。
    ※5
    当時の京は上京と下京の二つの街区に分かれてそれぞれが土塁などに囲まれていた城塞になってましたねえ。
    後に秀吉が御土居造って現在の京都の街の原型になりますが。

  8. 人間七七四年 | URL | -

    *6 織田の中核に大ダメージを与え 後の織田の瓦解につながる一撃になる

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