11/12~/18のブログ拍手ランキングです!
金ヶ崎の戦いについての京での様子 13
細川藤孝の干支 11
「上総介か、入洛めでたし。」 11
パワータイプだった細川幽斎 7
秀吉の、出生から信長の葬儀までの回想 7
堺より都に至る道路に於いて、税を徴収することを 6
一つとして謗る所のない仁君であった 4
熟したイチジクの如く 3
今週の1位はこちら!金ヶ崎の戦いについての京での様子です!
丁度直近の大河でも有った、織田信長の越前金ヶ崎からの撤退に関する、京の様子ですね。
出立が元亀改元の本当に直前ですが、改元を戦勝で寿ぐ、という意図もおそらく有ったのでしょう。
27日の情報は、おそらく25,6日の天筒山城、金ヶ崎城攻め、29日は、28日の退却を受けての情報でしょうか。
この日に、27日に開城した金ヶ崎城を攻めるための人員の要請が信長から届いているあたり、信長の使者よりも、
不確定なものにせよ、京への情報の伝達のほうが早かったこともわかりますね。おおよそ1日の間隔というところでしょうか。
朝廷も信長のために祈祷しており、信長が「官軍」であったことも解ります。
そして興味深いのが、浅井長政の寝返りが、朝倉ではなく六角氏と連動したものだと認識されている所ですね。
浅井長政の寝返りの理由というのは、実は現在でも何故あのか、よく解っていなかったりします。
当時の人が、朝倉よりも、六角に促されて寝返ったと考えたというのは、様々に示唆を与えてくれる情報だとも
思います。
当時の空気感も感じさせてくれる、非常に面白い内容だと思いました。
2位はこちら!細川藤孝の干支です!
細川藤孝の、信長の御前での、おそらくは当意即妙な受け答えだったのでしょう。
藤孝はこの後、秀吉の御前で、この手のお話が多く記録されるわけですが、信長の時代からすでに、そういう事を
やっていたと言うことなのでしょうね。
基本的には「同じ午年でも信長公と私とではこんなに違います」という事を表現していて、そこにある種の、自己への下卑、
あるいは信長への阿りも感じますが、一座爆笑したというのは、同時代的に一種のユーモアとして通用したという事でも
あるのでしょう。そしてこういう事をとっさに言える藤孝の機知、空気を読む敏感さが表されているのでしょうね。
『戴恩記』を書いた松永貞徳は、細川藤孝に心酔と言っていいほど傾倒していた人物として知られます。
この内容が、おそらく100%、尊敬すべき対応であるとして描かれた、という事を認識しつつ読むのも必要なのでしょう。
今週は同票でもう一つ!「上総介か、入洛めでたし。」です!
九条稙通といえば、コメントの方でも様々に触れられていますが、戦国期の公家の中でもおそらく屈指の傑物、異人、変人と
いうべき人物でしょう。関白、古典研究者、源氏物語研究者、和歌の名人、魔法使い、そして軍勢の指揮まで出来るという、
記録からだけでも、なまなかな武将程度では歯牙にもかからないような迫力があり、だからこそ、このような話も
残ったのでしょうね。事実かどうかはともかく、玖山公ならそのくらいのことはやる、と。
九条稙通はその生涯も含めて、非常に個性的で、面白い人物です。今後何かしらで取り上げられる機会が増えると良いな、
と僕も思っております。
今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/
金ヶ崎の戦いについての京での様子 13
細川藤孝の干支 11
「上総介か、入洛めでたし。」 11
パワータイプだった細川幽斎 7
秀吉の、出生から信長の葬儀までの回想 7
堺より都に至る道路に於いて、税を徴収することを 6
一つとして謗る所のない仁君であった 4
熟したイチジクの如く 3
今週の1位はこちら!金ヶ崎の戦いについての京での様子です!
丁度直近の大河でも有った、織田信長の越前金ヶ崎からの撤退に関する、京の様子ですね。
出立が元亀改元の本当に直前ですが、改元を戦勝で寿ぐ、という意図もおそらく有ったのでしょう。
27日の情報は、おそらく25,6日の天筒山城、金ヶ崎城攻め、29日は、28日の退却を受けての情報でしょうか。
この日に、27日に開城した金ヶ崎城を攻めるための人員の要請が信長から届いているあたり、信長の使者よりも、
不確定なものにせよ、京への情報の伝達のほうが早かったこともわかりますね。おおよそ1日の間隔というところでしょうか。
朝廷も信長のために祈祷しており、信長が「官軍」であったことも解ります。
そして興味深いのが、浅井長政の寝返りが、朝倉ではなく六角氏と連動したものだと認識されている所ですね。
浅井長政の寝返りの理由というのは、実は現在でも何故あのか、よく解っていなかったりします。
当時の人が、朝倉よりも、六角に促されて寝返ったと考えたというのは、様々に示唆を与えてくれる情報だとも
思います。
当時の空気感も感じさせてくれる、非常に面白い内容だと思いました。
2位はこちら!細川藤孝の干支です!
細川藤孝の、信長の御前での、おそらくは当意即妙な受け答えだったのでしょう。
藤孝はこの後、秀吉の御前で、この手のお話が多く記録されるわけですが、信長の時代からすでに、そういう事を
やっていたと言うことなのでしょうね。
基本的には「同じ午年でも信長公と私とではこんなに違います」という事を表現していて、そこにある種の、自己への下卑、
あるいは信長への阿りも感じますが、一座爆笑したというのは、同時代的に一種のユーモアとして通用したという事でも
あるのでしょう。そしてこういう事をとっさに言える藤孝の機知、空気を読む敏感さが表されているのでしょうね。
『戴恩記』を書いた松永貞徳は、細川藤孝に心酔と言っていいほど傾倒していた人物として知られます。
この内容が、おそらく100%、尊敬すべき対応であるとして描かれた、という事を認識しつつ読むのも必要なのでしょう。
今週は同票でもう一つ!「上総介か、入洛めでたし。」です!
九条稙通といえば、コメントの方でも様々に触れられていますが、戦国期の公家の中でもおそらく屈指の傑物、異人、変人と
いうべき人物でしょう。関白、古典研究者、源氏物語研究者、和歌の名人、魔法使い、そして軍勢の指揮まで出来るという、
記録からだけでも、なまなかな武将程度では歯牙にもかからないような迫力があり、だからこそ、このような話も
残ったのでしょうね。事実かどうかはともかく、玖山公ならそのくらいのことはやる、と。
九条稙通はその生涯も含めて、非常に個性的で、面白い人物です。今後何かしらで取り上げられる機会が増えると良いな、
と僕も思っております。
今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
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