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里村紹巴法橋は、奈良の住人であった

2020年11月18日 18:15

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/18(水) 12:26:44.98 ID:xNkLK5+R
里村紹巴法橋は、奈良の住人であったが、ある時
「人は三十歳のうちに名を発せられなければ、立身はならぬものである、
つくづくと世の有様を見るに、連歌師はやすき道と見えて、職人町人も
貴人の御座に連なっている。
もしそれが出来なけれな、百万遍の長老の挙状を取って関東に下り、
大岩寺にて談義を説き習い、世を渡るべし。」

と、ただ連歌と仏門の両道に定め上洛し、昌叱(紹巴の娘婿)の父である里村昌休を頼み、
連歌稽古をしたが、度々退屈して、弊をうちかたげ関東に下ると言っていた。
しかし小川の連歌師共と様々に交流している間に、徐々に人に知られるようになり、
称名院殿(三条西公条)に源氏物語を聴き、三好(長慶)殿の仰せにて、宗養(戦国期連歌界の第一人者)と
両吟を仕り、辛労の功つもって冥があったのか、その内に宗養も失せ、紹巴は天下の上手と呼ばれた。

彼は、古今は近衛殿より御相伝があった。称名院殿は、「彼は乞食の容である」として、
おゆるし無かった。称名院殿は惣別人を選んで道を伝えられた、

戴恩記

里村紹巴について



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    短歌、連歌、俳諧と。日本人に生まれた幸せ。
    紹巴は芭蕉と何かとかぶる。
    戦国連歌の隆盛も江戸時代の俳諧の隆盛とよく似たものがある。今はプレバトか。皆さん俳句面白いですよ。お若い方、何も分らずとも、まずは結社に入ってみるのがお勧めです。

    で、俳諧の有り様などを鑑みるに、紹巴ってのは、かなり気楽な立場だったんじゃないかと。有名武将との逸話が多いから畏まった人物のように思ったりもしたもんだけど、気楽な親しみやすい人だったと思う。

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