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比叡山焼き討ちについて

2020年11月22日 15:35

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/22(日) 15:15:05.29 ID:AyJDst3j
9月朔日より3日に至り、信長は志村・小川・金ヶ森三城を攻落し、猛威に乗じて12日には大軍を勢揃いして
比叡山にぞ向かいける。これは延暦寺の衆徒が朝倉・浅井に一味して信長を討ち滅ぼさんと謀り、朝倉・浅井の
方へ軍糧まで運んだが故に、信長の憤りは大方ならず、急に攻め立てたられたのである。

山門の大衆は昔より猛威を張って、王命をも武威をも物の数とせざる習いであったため、法衣の上に甲冑を着し、
念珠を離すまじき手には太刀・長刀を引っさげて、坂下に下り立ち散々に切り立てれば、織田勢はこれに追い崩
され坂より下に追い落された。されども寄手は大勢なので新手を入れ替えて、踏み越え踏み越え攻め戦う。

その間に信長は忍の兵を山上に紛れ入らせ、堂社仏閣僧坊ことごとくに火を放たせた。折しも魔風吹き散り峰々
谷々院々坊々を黒煙が覆い火炎一円に蔓延れば、山法師どもは心は弥猛にはやれども、後ろからは猛火に責めら
れ、前からは敵に囲まれて逃げ出る道はなし。寄手の大軍は時を得て切り伏せ薙ぎ伏せ、たまたま逃れた者は縲
絏の恥を受け、法師児童おしなべて助かる者は稀だったのである。

今年今日はいかなる日であろうか。元亀2年(1571)9月12日、その昔、桓武天皇が伝教大師と御心を合
わせて草創し給いし王城鎮護の零場、根本中堂、文珠楼、日吉山王二十一社、およそ山上の三塔院々、経蔵、仏
宇、神社、一宇も残らず焦土となる。浅ましかりける事どもなり。

この時、金剛相模という悪僧は強弓の手練れであったが、如意ヶ嶽から2度まで信長を狙い射た。されども当た
らず。信長は山門を焼滅し、山麓に新城を構造して明智十兵衛光秀に守らせ、信長は岐阜へ帰陣せられける。

――『改正三河後風土記(武徳編年集成・織田真記)』


この時、信長公は東坂本の大鳥居をまっすぐに攻め上らせ給うと、山門の中衆、金剛相模という法師は無双の大
力強弓で、如意嵩から狙いすまして大きな矢をひょうと放つ。その矢は信長公の召されたる御馬の太腹に当たり、
馬はただ一矢に倒れてそのまま死に入った。

信長公はそれから大鳥居の石の上に腰掛けて居直り給い、諸方の焼けるのを御覧になっているところを、相模は
また二の矢を放った。その矢は信長公の腰掛けなさる石に当たり、たちまち砕けた。それより近習の軍兵どもは
鶴瓶打ちに鉄砲を揃え如意嵩へ撃ちかければ、相模はそれよりその場を落ち失せて行方知れずになったのである。

流石の精兵強弓なれども信長公の御運強く、2つの矢を射損じた。その矢の根は1尺2寸。後には京都大仏伝の
宝蔵に伝わり、籠め置かれた。信長公の腰掛石も坂本の大鳥居に近頃まで残った。

――『織田軍記(総見記)』



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    如意ヶ嶽から矢が届くのかよ。話盛りすぎ…。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    しかも40センチ近い矢尻なんだぜ

  3. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    バリスタかな?

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