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里見忠義の改易

2020年12月04日 17:29

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/04(金) 15:45:56.96 ID:xfgVEgNm
元和元年の秋、大膳殿(正木時茂)が国替えとして備前国に預け置かれ、九月中旬、里見忠義公は
伯耆国へ流罪と成った。これは相模殿(大久保忠隣)と同罪の故であった。
忠義公の御前は相模殿の息女であり、家老は板倉、堀江、印東、黒川であった。

この公の落去の事については、当時新家老である印東采女が出頭していた故に、譜代の諸士は悉く
不満や不平を感じならが奉公しており、また忠義自身の悪行として、彼は「非人は国の費えである」
として、悉く打ち殺した。

また相模殿と一味の事は、諸士は知らなかったのだが、その事について、忠義は、彼の威勢に馴うか
その心を見るとして、ある時は水弾き(水鉄砲)を以て諸士の頭に水を弾きその様子を見た。

このような中、新出頭の者たちが次第にはびこり、譜代の士は次第に浪人した。
また相模殿に鉄砲百挺を遣わされたこと、並びに陰謀のことが江戸に早々に知れたのは、
かの浪人達の話より広まったのだろう。

また怪しきことに、寅の年、安房の八幡宮に、里見家御先祖より納めた宝剣を申し下し、
替わりに守家の御腰物を納めた所、宮殿がおびただしく鳴動した。
卯年の夏、お城の堀に稲が一株生え出たのを、諸人群衆して見物したのは、尋常ではないことであった。
同九月、江戸に出府される時、北様に明星と言って二疋の名馬が有った。明星は辻趺して死す故に、
北様が召して御出になった。
また鬼門の方角に向かって、大厳寺という浄土宗の寺が建てられたのも不吉なことだという。

御前は江戸代万町へお越しになられ、公儀より百表づつの扶持を下された、四歳になられた姫君も御一緒であった、
後に姫君は御守りの人に預け置かれ、御前は鎌倉に引き込み、比丘尼となられた。
三の御前については、藤井より美濃へお越しになられた。上下の人々は、そのここかしこと漂白の体を
哀れと言わぬ人も無かった。

忠義公は元和八年六月一九日、二九歳にて逝去された。

里見九代記

里見忠義の改易について



473 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/05(土) 13:10:00.81 ID:HOdkqwdh
里見と北條は、肝付と島津の関係にちょっと似てる
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    どう見ても暗君です
    里見は本当にしょうもないな…

  2. 人間七七四年 | URL | -

    お寺を鬼門封じに建てるのは良くあるやろ、寛永寺なんてモロやん
    なんか勝頼と一緒で何でも叩く材料にしているとしか思えん

  3. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    大久保忠隣事件は結局何がどうだったのかさっぱり分からんし
    言いがかりに近い改易も見られるから庶民の憶測を呼んだんやろね

  4. 人間七七四年 | URL | -

    倉吉四千石の流れを見る、幕府から最大限辱めを与えて死まで追い込もうという鋼の意志を感じる。
    大久保党失脚とは別の流れで幕閣に憎まれてたよねこの人。理由はわからんが。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    将軍お膝元に海を渡ればすぐのところを領してる上に同じような立地だった北条に楯突き続けた一族なんて不穏分子そのものだもん

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ※3
    改易はよく大事件の連座扱いされる事が多いけど
    時期が離れてたりしてて疑わしいのも多いね

  7. 人間七七四年 | URL | -

    ※5

    惜しむらくは、徳川宗家の養女と縁組できるような大藩(そうなれば親藩として実質扱われる)でもなければ、江戸から遠くて無警戒に扱われるような領土でもなかったということか

    まあ、大久保忠隣の縁戚になろうとした点で、何とか徳川幕府内に人脈作って生き延びようとしたんだとは思うわ。縁戚先に選んだ幕府家中の大老が間違っていたのは時の運か

    忠隣事件がなければいきなり改易のまえに東北や上越あたりに転封されて生き残れたのかねぇ

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