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其方之者と不可存候、天下之者と可存

2020年12月08日 18:02

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/08(火) 17:27:09.40 ID:wHMS4+2V
(大阪夏の陣、四月二十九日の樫井の戦いの後)同日夜に入り、但馬守殿(浅野長晟)より、
大隅(亀田高綱)と上田宗箇に同心して山口まで罷り越すように申し来た。
早々に参上した所、但馬守殿は

「両人ながら呼び出したのは、今日の鑓の、一、二を改めたく思ったためである。両人共に、
今日の合戦での次第を有り体に申すように。先ず亀田より述べよ。」
との事であったので、大隅が合戦の次第を申し上げた

「上田とそれがしが鑓を入れたのは、多分同時であったと思います。しかし、あの時私の周りは
騒がしかったので、分明ではありません。」

そう申した所、上田宗箇は
「いや、左様では無かった。大隅は私よりも、五、六間先に行っていました。」

もう申し上げたため
「そういう事であるのなら、一番鑓は大隅、二番鑓は宗箇である、という事だな。」
と仰せになった。その夜はまた、和歌山へ罷り帰り、この次第は浅野家の諸侍何れも承っている。

大阪落城の後、上田宗箇と大隅は京の二条城に召された。家康公の御前へは、大隅が先に
召し出され、直に樫井合戦の次第をお尋ねに成られた。そして但馬守殿を御呼びになり、こう仰せに成った

「この亀田は、当代に至り、両度御用に立った者である。彼をただ、その方の家臣と存ずべきではない。
天下の者と存ずるべきである」
(此亀田儀ハ当代に至り両度御用に立候條、其方之者と不可存候、天下之者と可存)

誠に以て有難き御諚であると存じ奉り、涙を流して御前を立ちかねるほどであった。

その次に上田宗箇が雄目見得いたしたのだが、今度の骨折りによって(関ヶ原で西軍についたことの)御勘気が
御免となるとの御諚であった。

その日、将軍様(秀忠)にも御目見得をし、一番は上田宗箇であった。「茶の湯は上がられるか?」
とのお尋ねがあり、罷り立った。次に大隅が罷り出でると、今度の働きを聞き届けられて居られた。
これにて御振る舞いが下されたのだが、たいへん騒がしい時期でも有り、兵衛様(徳川義直・浅野幸長の娘婿)に
申し付けたので、早々に参上するように、との御諚であったので、罷り立った。
その日、上田宗箇は既に但馬守殿の元から立ち退いていたので、大隅一人が兵衛様の元に参上仕り、
御振舞を下された。保昌五郎の御脇差を拝領した。これは現在、善右衛門に遣わし置いてある脇差の事である。

(亀田大隅守高綱泉州表合戦覚書)

大阪夏の陣、樫井の戦いでの亀田高綱の活躍とその評価について



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