511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/27(日) 16:54:25.91 ID:E1J1ggJF
琉球国は島津家久(忠恒)十代の祖、陸奥守忠国に、普広院殿(足利義教)より拝領され、
永享年中より薩摩に従っていたのだが、近年それを懈怠いたし、殊更、島津家より権現様(徳川家康)
への御礼を申し上げる旨を申し付けたのだが、了承に至らなかった。そのため軍勢を差し向けて
退治するという旨を、山口勘兵衛直友を通じて言上いたした所、たちまち御免頂いたため、
慶長十四年三月上旬、家久は家老の樺山権左衛門久高、平田太郎左衛門増宗に申し付け、
軍勢三千、兵船百余艘を差し渡らせた。家久も山川と申す湊まで出馬し、下知をした。
権左衛門、と太郎さえもんは先ず大島に手を付け、徳島へと参ったが、島の者共がこれを
防ごうとしたため、数百人を討ち取った。そのため永良部島は異議なく従った。
それより琉球の地に押し掛かり、四月一日、海陸より、国王の居城である首里という城に
取り掛かった。そして国王の尚寧が降参仕ったため、早舟を以てこの事を家久に申し越した。
これを使者を以て言上した所、権現様、台徳院殿様(秀忠)は御感斜め成らず、感状を下され
琉球国を永く家久に下すという旨を仰せに成られた。龍伯(義久)、惟新(義弘)にも同前に
御感状を頂戴した。
権左衛門、太郎左衛門は、尚寧を連行して、五月五日、薩摩に帰着いたした。
(島津家譜)
琉球出兵について
琉球国は島津家久(忠恒)十代の祖、陸奥守忠国に、普広院殿(足利義教)より拝領され、
永享年中より薩摩に従っていたのだが、近年それを懈怠いたし、殊更、島津家より権現様(徳川家康)
への御礼を申し上げる旨を申し付けたのだが、了承に至らなかった。そのため軍勢を差し向けて
退治するという旨を、山口勘兵衛直友を通じて言上いたした所、たちまち御免頂いたため、
慶長十四年三月上旬、家久は家老の樺山権左衛門久高、平田太郎左衛門増宗に申し付け、
軍勢三千、兵船百余艘を差し渡らせた。家久も山川と申す湊まで出馬し、下知をした。
権左衛門、と太郎さえもんは先ず大島に手を付け、徳島へと参ったが、島の者共がこれを
防ごうとしたため、数百人を討ち取った。そのため永良部島は異議なく従った。
それより琉球の地に押し掛かり、四月一日、海陸より、国王の居城である首里という城に
取り掛かった。そして国王の尚寧が降参仕ったため、早舟を以てこの事を家久に申し越した。
これを使者を以て言上した所、権現様、台徳院殿様(秀忠)は御感斜め成らず、感状を下され
琉球国を永く家久に下すという旨を仰せに成られた。龍伯(義久)、惟新(義弘)にも同前に
御感状を頂戴した。
権左衛門、太郎左衛門は、尚寧を連行して、五月五日、薩摩に帰着いたした。
(島津家譜)
琉球出兵について
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