518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/02(土) 00:09:24.98 ID:BlHmGHBQ
明智光秀が、家老の明智弥平次(秀満)を呼び、丹波の城の天守にてこのように言った
「私は信長に恨み多し。その上に又、このままでは終には我が身難儀に及ぶだろうと予想している。
この上は信長を失い、一度は天下を守るべしと思うのだ。どうだろうか?」
弥平次承って
「御恨みの事は、さもあるでしょう。しかれども信長公は御心安く思し召されているからこそ、
跡々の後遺恨も無く、その上に又、都に近い丹波国に添えて、坂本まで拝領された事は、
過分のお取り立てであり、冥加に叶い給う所であるのに、少しの恨みを思い捨てられず、
御逆心なされるというのは、天命が尽き果ててしまうこと疑い有りません。
思召し留まり給うべきです。」
そのように言葉を尽くして諫止すると、光秀もややあって
「よくよく分別してまた申すことにする。その方も分別有るように。」
と言い、その日この話は止んだ。
その後、溝尾藤兵衛、斎藤内蔵助、明智次郎左衛門、藤田伝吉の、四人の家老を召し集めて、
先の思い立ったことを言うと、彼らが諫止することも、弥平次が申すことと変わらず、その時
光秀も、とくと分別定まって、「ならば皆々、この事を深く秘すべし」と約した。
その後の六月朔日、光秀はまた弥兵衛を召して
「近頃私が言ったこと、年寄共とも密かに談合したが、その方の申した所と少しも違わなかった。
したがって、思いとどまることとした、その事、その方も心得ておくように。」
と言ったが、弥平次はこれを聞くと
「いよいよ御勿体なき御分別かな。それがし一人の口はいかようにも止められますが、
四人の口を止めさせるのは困難です。天知る地知る、我知る人知る、殿が信長公を恨まれるように、
かの四人の内に、もしも御前を恨み申すことが出来れば、その時に天罰を逃れることは出来ません。
この上は是非も有りません、思し召されたことを実行するのです。時を移されれば、一大事と
なるでしょう。」
そう荒々しく申すと、その時光秀は、困難に直面した気色にて、前後を忘却した様子であったが、
弥平次が引き立て進めた所、彼に気力を付けられて、
「さて、いかなる手立てが然るべしであろうか」とあった。
「ならば、家老共を召されて、『只今京都より飛脚到来、西国へ筑前守(秀吉)を遣わし置かれている
事について、仔細が有るので急ぎ罷り越すようにと仰せ下された、詳細は加茂川にて申し渡すので、
今夜、夜半に加茂川に腰兵糧ばかりにて集まるように』と、仰せになられるべしです。」
こうして、明日二日の未明に、加茂川より本能寺と二条の両方に軍勢を押し分けて、終に
信長公、城介殿(信忠)に御腹召させられたという事は、世に知られている所である。
その後光秀は、京の定めをあらまし仕置して、安土に赴き、安土の定めをして、また京に上るという時に
弥平次を呼んで
「ここは信長の居城であるので、その方はここにて、金銀等よろずの管理を、油断なく仕ってほしい。」
と言った。弥平次はこれを聞くと「私のようなものを!」と、自分の鼻を指差して
「ここに金奉行として置かれるなどというのは、いよいよ天命がお尽きになったようです!」
と腹立ちに言い返したが、光秀はこれを承引せず、弥平次を安土に留めさせた。
案の如く、明智は山崎にて討たれた。
弥平次は安土にて討ちもらされ、坂本に城に入って、腹切って死んだ。
この談合の次第は、信長記にも見えないが、この時の状況をよく知っている人の言うままに、
ここに記す。
(備前老人物語)
519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/03(日) 00:11:51.94 ID:BFsaYPMf
江戸初期の人物の記述だっけ?備前老人物語
そのおかげか、後世よく言われる明智左馬之助じゃなく弥平次なのね
左馬之助ってどっから来たんだろ
明智光秀が、家老の明智弥平次(秀満)を呼び、丹波の城の天守にてこのように言った
「私は信長に恨み多し。その上に又、このままでは終には我が身難儀に及ぶだろうと予想している。
この上は信長を失い、一度は天下を守るべしと思うのだ。どうだろうか?」
弥平次承って
「御恨みの事は、さもあるでしょう。しかれども信長公は御心安く思し召されているからこそ、
跡々の後遺恨も無く、その上に又、都に近い丹波国に添えて、坂本まで拝領された事は、
過分のお取り立てであり、冥加に叶い給う所であるのに、少しの恨みを思い捨てられず、
御逆心なされるというのは、天命が尽き果ててしまうこと疑い有りません。
思召し留まり給うべきです。」
そのように言葉を尽くして諫止すると、光秀もややあって
「よくよく分別してまた申すことにする。その方も分別有るように。」
と言い、その日この話は止んだ。
その後、溝尾藤兵衛、斎藤内蔵助、明智次郎左衛門、藤田伝吉の、四人の家老を召し集めて、
先の思い立ったことを言うと、彼らが諫止することも、弥平次が申すことと変わらず、その時
光秀も、とくと分別定まって、「ならば皆々、この事を深く秘すべし」と約した。
その後の六月朔日、光秀はまた弥兵衛を召して
「近頃私が言ったこと、年寄共とも密かに談合したが、その方の申した所と少しも違わなかった。
したがって、思いとどまることとした、その事、その方も心得ておくように。」
と言ったが、弥平次はこれを聞くと
「いよいよ御勿体なき御分別かな。それがし一人の口はいかようにも止められますが、
四人の口を止めさせるのは困難です。天知る地知る、我知る人知る、殿が信長公を恨まれるように、
かの四人の内に、もしも御前を恨み申すことが出来れば、その時に天罰を逃れることは出来ません。
この上は是非も有りません、思し召されたことを実行するのです。時を移されれば、一大事と
なるでしょう。」
そう荒々しく申すと、その時光秀は、困難に直面した気色にて、前後を忘却した様子であったが、
弥平次が引き立て進めた所、彼に気力を付けられて、
「さて、いかなる手立てが然るべしであろうか」とあった。
「ならば、家老共を召されて、『只今京都より飛脚到来、西国へ筑前守(秀吉)を遣わし置かれている
事について、仔細が有るので急ぎ罷り越すようにと仰せ下された、詳細は加茂川にて申し渡すので、
今夜、夜半に加茂川に腰兵糧ばかりにて集まるように』と、仰せになられるべしです。」
こうして、明日二日の未明に、加茂川より本能寺と二条の両方に軍勢を押し分けて、終に
信長公、城介殿(信忠)に御腹召させられたという事は、世に知られている所である。
その後光秀は、京の定めをあらまし仕置して、安土に赴き、安土の定めをして、また京に上るという時に
弥平次を呼んで
「ここは信長の居城であるので、その方はここにて、金銀等よろずの管理を、油断なく仕ってほしい。」
と言った。弥平次はこれを聞くと「私のようなものを!」と、自分の鼻を指差して
「ここに金奉行として置かれるなどというのは、いよいよ天命がお尽きになったようです!」
と腹立ちに言い返したが、光秀はこれを承引せず、弥平次を安土に留めさせた。
案の如く、明智は山崎にて討たれた。
弥平次は安土にて討ちもらされ、坂本に城に入って、腹切って死んだ。
この談合の次第は、信長記にも見えないが、この時の状況をよく知っている人の言うままに、
ここに記す。
(備前老人物語)
519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/03(日) 00:11:51.94 ID:BFsaYPMf
江戸初期の人物の記述だっけ?備前老人物語
そのおかげか、後世よく言われる明智左馬之助じゃなく弥平次なのね
左馬之助ってどっから来たんだろ
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コメント
人間七七四年 | URL | -
「それがし一人の口はいかようにも止められますが」のくだりはリアルで面白いと思った。
明智家主従何人かで雑談しているときに、一人が「そういえば今謀反したら天下取れるよな。」なんて口にしたもんだから、もみ消そうにも収拾がつかなくなって謀反してしまった。
なんてストーリーを妄想してしまった。
( 2021年01月02日 22:14 )
人間七七四年 | URL | -
・正月にオナラしてボコボコにされたから
・男色の相手を贔屓して出世させたから
・妻がセクハラされたと勘違いしたから
・父親を殺されたと勘違いしたから
家臣が衝動的に主君討った例はしょうもない理由が多いんだよね
真面目に考察される光秀の犯行動機も案外大したことなかったりして
( 2021年01月02日 23:19 )
人間七七四年 | URL | -
>2
たまに話題に上がる、
大勢の人の前でズラをはたき落されたから
という本能寺の変を起こした理由の信憑性がます話ですね
( 2021年01月03日 00:56 )
人間七七四年 | URL | -
光秀「謀反しようと思うんだけど」
秀満「何アホなこと言ってるんですか」
光秀「それもそうかなあ」
光秀「…って左馬介に言われたんだよ」
家老「そりゃそうですよ」
光秀「やっぱそうかあ」
光秀「…って家老衆にも言われたよ、やめとくわ」
秀満「なんで言っちゃうんですか!?アホですか!?」
コントかな?
( 2021年01月03日 01:57 )
人間七七四年 | URL | -
家臣が誰も賛成しないパターン見ると光秀があまりにもアレだな。。
( 2021年01月03日 08:41 )
人間七七四年 | URL | -
家臣主導説なんだよな俺
斎藤あたりが主犯だと思ってる
( 2021年01月03日 13:31 )
人間七七四年 | URL | -
ちょうど新聞に、光秀は本能寺の変を「直接」指揮してなかった説を示す古文書の話が
( 2021年01月04日 11:45 )
人間七七四年 | URL | -
今回の資料は斎藤利三の三男・利宗が親族に語ったもので
・事前に明智秀満へ相談
・6月1日に四人の家老へ相談して賛同を得た
・本能寺に利三と秀満が率いる二千騎を送る
・光秀自身は鳥羽にいた
という内容らしい
( 2021年01月04日 12:16 )
人間七七四年 | URL | -
あの記事はわざと誤解を生むようなタイトル付けてるな。
単に光秀が自らノブの首取りに行ったわけではなくて部下に攻めさせたというだけだし。そらそうでしょとしか。
( 2021年01月04日 19:50 )
人間七七四年 | URL | -
>江戸初期の人物の記述だっけ?備前老人物語
>そのおかげか、後世よく言われる明智左馬之助じゃなく弥平次なのね
>左馬之助ってどっから来たんだろ
信長公記に明智左馬助と書かれてるから間違いの可能性は低い
むしろ大河の影響で書状に書かれているのが発見された弥平次が本当に正しいのか考えるべきだろう
長谷川秀一が長谷川竹(おたけ、森乱こと「おらん」同様に信長の衆道の相手なので)と書かれているように
当時の織田家中での呼び名が分かる
神君伊賀越えにも「おかめ」や「おます」いるしな
( 2021年01月05日 09:08 )
人間七七四年 | URL | gle96ifk
※1
その雑談を聞き流したりでもしたら(あ、否定しないんだ)ってことになって外部に漏れたら尾ひれがついてくっそ面倒になるので、主人としては即座に叱るしかないし、冗談のつもりでも軽率にそんなこと言う家臣は大きく評価を下げざるをえない
たとえ本心では謀反やるつもりだったとしてもね
( 2021年01月10日 20:42 [Edit] )
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