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「寿徳院玄由の閲歴について」

2021年01月03日 17:30

817 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/03(日) 12:51:10.01 ID:fMufmaQf
曲直瀬玄由(寿徳院、寿徳庵)は名医・曲直瀬道三の高弟、道三の孫娘(別の高弟の未亡人)と再婚した人物


薩摩の島津義弘は元和4年春から中風に罹って意識不明が続くことがあり、それを聞き及んだ将軍秀忠は同年3月25日付で
問い合わせの御内書を送り、義弘側から4月22日に返答している
島津家久へは本多正純を遣わして見舞いの言上をさせ、薩摩の国元へも見舞いの上使を派遣したという

『徳川実紀』元和4年には、同年秋の寿徳庵の薩摩への下向とあり、近衛信尋の元和五年6月3日付見舞状には
「寿徳庵下向之事候間、一書申入候」とあるので、2度の下向が推測される

東京大学史料編纂所所蔵の『島津家文書』では、元和三年六月の将軍秀忠の上洛に家久も上京し、十月初めまで滞在した折に、
義弘の国元での病を聞いた秀忠が心配して玄由を薩摩へ遣わしたとある
なお、この滞在中に家久は参議任官、松平姓の名乗りの許可を得、西洞院家を通して後陽成上皇崩御の経過を知ったとのことです

この時期、徳川将軍家の有力大名への配慮の一端がうかがえる話でありました



西村義明「寿徳院玄由の閲歴について」『日本医史学雑誌』第四十六巻第2号より



後に玄由は琉球からの留学生・山崎休意を弟子にしているので、島津家つながりで交流が続いていたものか?
琉球の禅僧は多くが京都で修行していたので、そちらのつながりも可能性ありそうですが

休意はまとめサイト『島津の琉球侵攻とある日本人武者』の山崎二休の息子ですが、コメント欄での考察にあるように越前山崎氏の一族かもしれない
朝倉と山崎の名がクローズアップされた、今回の大河の話ができる今しかネタにできないかw



819 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/03(日) 20:34:14.17 ID:bJHzZg13
>>817
まとめ過去記事のそれ、コメントの皆さんは越前山崎氏であることを確信していたようだが、どうしてそんなに断言できるものかなあ。
まあ当時の人ってそういう生まれの背景ないと学問身に付かないんだろうけど。
二休の記録は琉球にしかないからわからんね。

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/03(日) 21:54:40.89 ID:ubGXdGN/
球陽 附巻5

「日本山崎二休、克く忠義を操り、以て重罪を累ぬ。」
山崎二休は、名乗は守三と称し、日本越前の人なり。
其の人と為りや、生資純粋にして、学は精密に徹す。而して少幼の時より医術に志して、他方に遊ぶ。
茲に球邦は中華に往来すること歴年已に久しと聞き、意想へらく、扁鵲の妙法、球国に遺在する有らんと。
乃ち故里を辞去し、本国に来到して那覇に住居し力を国に効す。
(このあと島津との戦いについて)

「山崎」「越前」「学問に通じて琉球まで遊学できるくらいなら裕福」
→越前山崎氏かな?
だろうね

821 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/03(日) 23:11:34.10 ID:T+Y1+Z45
うん、そう。球陽のそれしか記録がないよね。
推論すると当然そうなるだろうが、結論づけていいものかな?
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