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鏡島村梅之寺・乙津寺の事

2021年01月12日 16:44

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/12(火) 00:50:45.38 ID:6vjf8+TQ
鏡島村梅之寺・乙津寺の事

厚見郡鏡島村の梅之寺というのはその昔は乙津寺と号し、ここはすなわち7里の渡海の大湊であった故
に船付大明神を鎮守とした。

(伝承によれば、この辺りはかつて「乙津島」と呼ばれて、海に浮かぶ島だったが、弘法大師によって
桑田となり、地名を「鏡島」と呼ぶようになったという)

その後、一寺に点ぜり。この寺一派の本寺にして、土岐・斎藤の両家が殊にこれを帰依して、数ヶ所の
庄園を寄付した。その記録は宗別に見えたり。

当村院内はことごとく梅樹を植えている。故に“梅之寺”と号す。按ずるに斎藤家信仰の一寺と見える。
信長御入国の後も、もっとも寺務繁く、並びもなく栄えた。

しかるに信長公は元来仏法を嫌い給いて、所々で寺院仏閣を数多破却し給いたけれども、故あって当寺
をのみ甚だ尊敬し給い、とりわけて当山の梅を愛し給いて、すなわちこれを分けて江州安土、ならびに
京都妙心寺などに移し給わったのである。よってその寺の威は甚だしく、勅願所にも異ならず。

しかるところ、天正10年(1582)6月2日、信長生害し給いてよりこの寺の威勢も薄くなったの
だという。その後、文禄2年(1593)癸巳閏5月、秀吉より寺領の御朱印を改正せられたという。

――『美濃国諸旧記



837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/12(火) 12:58:07.18 ID:O8i+wnF4
>>836
美濃に海なんてなくね?と思ったら、長良川の湊なのね。
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    多分、弘法大師の頃は本当に海だったんじゃ無いかな
    戦国時代でも伊勢湾は津島近くまで切れ込んでいたみたいだし

  2. 人間七七四年 | URL | sSHoJftA

    養老古図だと鏡島(現・岐阜市)あたりまで濃尾平野は海だねぇ…実際には湿地帯だったと思うが。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    ※2さんの仰る古地図を見てきたよ。清洲とか津島とか枇杷島とか…地名は伊達じゃなかったんだね。

    現代のハザードマップの根拠としても貴重な資料だけど、こういう文書の背景を知りたい時にもなかなか便利。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    いわゆる尾張古図のことなら信憑性の低い偽書扱いが定説じゃないっけ。
    学問的にはほぼ取り上げられてない。

  5. 人間七七四年 | URL | sSHoJftA

    ※4さん

    ※2です。まあ海があったというのはデタラメだと思うし、その意味では偽書と思う。
    壬申の乱の時の湯沐邑はあの図の海のどまんなかにあるはずだしw

    ただ地形的には、現在も低地はあの形である。
    低地特有の輪中もこの話に出てくる鏡島の北あたりまであった。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    江戸時代までは木曽三川は分流合流しまくってと云うか三川の中に中洲が幾つも島として有る様な状況ですかねえ。(その中洲を堤防で囲って中洲の土地が川より低い天井川になったのが輪中ですね)海なのは伊勢湾近くで名古屋の南区の笠寺台地はかつては周りは干潟で笠寺台地は松巨島(まつこじま)と呼ばれていた様で鎌倉時代は街道が通っていて(干潮の時に島に渡って通行していた)後に干潟が陸化した戦国時代には織田も今川もここに幾つも城を造ってます。
    伊勢湾台風の時には周りが高潮で水没して松巨島が復活してしまった事も。

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