853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/20(水) 14:34:13.11 ID:shinWrHe
一里づかつき給ふ事
今は国が収まり、土民までも安楽である。世は澆季(末世)に及ぶと言えども、君は順徳を施し給われ、
仏法王法共に繁盛する、有難き御時代である。
然れば日本の五畿七道は、人王三十二代、用明天皇の御宇に定まった。六十六ヶ国に分けられた事は、
四十二代文武天皇の御宇である。道については四十五代聖武天皇の御宇に、行基菩薩が六町一里として、
王城よりみちのく東濱に到って、三千五百八十七里に極め、また長門西濱に到って千五百七十八里と、
くわしく図書に記し置かれたが、その境は定かではなく、これによって当君の御時代に、一里塚を
作るべきよしを仰せだされた。
日本橋は慶長八年、江戸町割の時節に新しく出来た橋である、この橋の名を、人間は名付けておらず、
天より降ってきたのか地より出てきたのか、諸人一同にこれを「日本橋」と呼ぶようになったのは
稀代の不思議とされた。そして、武蔵国はおおよそ日本東西の中間の国に当たるとの御諚があり、
江城日本橋を一里塚の起点と定め、三十六町を道一里として、これより東の果て、西の果て、五畿七道
残る所無く一里塚を築かせられた。
日本は年久しく治まらず、諸国乱れて辺土遠境の道は狭くなり、また曲がっていたが、そういう所を
見計らい、直線にし道を広げ、牛馬の蹄が労せないように、石を除き大道の両辺に松杉を植え、
小河には尽く橋をかけ、大河には船橋を渡し、日本国中、民間往復のたよりに備えられた。
これは慶長九年の事である。
万民喜悦の思いを含み、万歳を願いあった。
このような将軍国王の深恩に、末代までもどうしてこれを疎かに出来るだろうか。
『見聞集』
一里づかつき給ふ事
今は国が収まり、土民までも安楽である。世は澆季(末世)に及ぶと言えども、君は順徳を施し給われ、
仏法王法共に繁盛する、有難き御時代である。
然れば日本の五畿七道は、人王三十二代、用明天皇の御宇に定まった。六十六ヶ国に分けられた事は、
四十二代文武天皇の御宇である。道については四十五代聖武天皇の御宇に、行基菩薩が六町一里として、
王城よりみちのく東濱に到って、三千五百八十七里に極め、また長門西濱に到って千五百七十八里と、
くわしく図書に記し置かれたが、その境は定かではなく、これによって当君の御時代に、一里塚を
作るべきよしを仰せだされた。
日本橋は慶長八年、江戸町割の時節に新しく出来た橋である、この橋の名を、人間は名付けておらず、
天より降ってきたのか地より出てきたのか、諸人一同にこれを「日本橋」と呼ぶようになったのは
稀代の不思議とされた。そして、武蔵国はおおよそ日本東西の中間の国に当たるとの御諚があり、
江城日本橋を一里塚の起点と定め、三十六町を道一里として、これより東の果て、西の果て、五畿七道
残る所無く一里塚を築かせられた。
日本は年久しく治まらず、諸国乱れて辺土遠境の道は狭くなり、また曲がっていたが、そういう所を
見計らい、直線にし道を広げ、牛馬の蹄が労せないように、石を除き大道の両辺に松杉を植え、
小河には尽く橋をかけ、大河には船橋を渡し、日本国中、民間往復のたよりに備えられた。
これは慶長九年の事である。
万民喜悦の思いを含み、万歳を願いあった。
このような将軍国王の深恩に、末代までもどうしてこれを疎かに出来るだろうか。
『見聞集』
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コメント
人間七七四年 | URL | -
将軍を国王と言ってしまうのか(困惑)
( 2021年01月20日 23:07 )
人間七七四年 | URL | -
朝鮮通信使には当初「日本国王」で国書渡してたんでなかったっけ
(対馬藩の偽装で)
( 2021年01月22日 06:47 )
人間七七四年 | URL | -
この「一里づかつき給ふ事」は津島藩が朝鮮へ宛てた偽造文書だった
( 2021年01月22日 18:46 )
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