fc2ブログ

木津勘助の墓

2021年01月26日 16:24

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/26(火) 02:32:24.14 ID:YN0ixmWu
木津勘助の墓

本名は中村勘助といい、天正14年(1586)に足柄山で生まれました。
20代のはじめ木津村に住み、土木技術で豊臣秀吉につかえました。
豊臣家滅亡後、木津川の治水・堤防作り・勘助島などの新田開発を進めました。

寛永16年(1639)に近畿一円が冷害にみまわれ大飢饉の様相を呈したとき、
米(大阪城の備蓄米)放出を願い出ましたが聞き入れられず、
私財を投げうって村人に分け与えましたが効果なく「お蔵破り」を決行して捕らえられました。
葦島(大正区三軒家付近)に流され、万治3年(1660)に75歳で亡くなりました。

「お蔵破り」を決行したことなどから大阪の人に永く尊敬されていました。

墓は唯専寺(浪速区敷津西)にあり、鴎町公園(浪速区敷津西)に勘助橋碑が建っています。
また、大正区の上八坂神社にも「中村勘助之碑」があります。


※管理人注
こちらの投稿は、この記事とほぼ同一内容でしたので、併せてリンクを張っておきます

レファレンス協同データベース
提供館 大阪市立中央図書館
質問 大国主神社に木津勘助の像があるが、何をした人か?
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000129681




873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/26(火) 08:08:37.60 ID:XoABijWS
講談「木津の勘助」だと
木津の勘助に惚れ込んだ淀屋十兵衛(米相場の基準となる米市を設立、淀屋橋をかけた豪商)とその娘。
娘が貧乏暮らしを承知で勘助のところに嫁ぎたい、と結婚を申し出ると
勘助「もらいまひょ」淀屋「あげまひょ」
というわけで勘助の家主の媒酌で淀屋の娘は嫁ぎ、嬉々として貧乏暮らし。
暮れになって家主が米相場に手を出し二百両の借金を抱えていると知った淀屋の娘は
「たった二百両ですか?私が嫁ぐときに父がお小遣いをくださいましたので使いましょう」
勘助「さすが金持ちやなあ、二百両もくれはるか」
淀屋の娘「いいえ、三千両でございます」
勘助「そんなにうちに積んどっても石や瓦と変わらん、きれいにつこうたろ」
こうして木津川の工事を行い、飢饉の時には幕府の米蔵を破って飢民に与えるという侠気な振る舞いをいたしました。

豪商、しかも米相場の元締めの婿にしちゃったら幕府の米蔵破る必要ない気もするけどそこは講談ということで
スポンサーサイト





コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    1586年生まれで、
    1598年没の秀吉に、20代の初めに仕えるってえのは無理があるかと。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    元スレの話と、それに付けた講談話、さらに※1殿のツッコミと、どれもここのブログらしくて素敵だ。

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/12848-6284852f
この記事へのトラックバック