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週刊ブログ拍手ランキング【02/11~/17】

2021年02月17日 14:55

02/11~/17のブログ拍手ランキングです!


権現様が上総殿になされたことを御覧になっているので 14

これが江戸瓦葺きの始めである 12

名字は魚の名であったはずなのですが 11
世の中は けふばかりこそかなしけれ 10

鰹とシビ 8
『地獄網』 8
龍造寺の鍋島がしたようなこと 8
総じて城を囲む場合 7
Wikipediaの津田秀政の項目一部抜粋 6


今週の1位はこちら!権現様が上総殿になされたことを御覧になっているのでです!
駿河大納言・徳川忠長の乱行についての、細川忠興による報告ですね。忠長が小浜民部の子、小浜七之助を手打ちにしたのは
寛永8年(1631)12月であり、これにより忠長は、甲府に蟄居となります。翌寛永9年に秀忠は危篤となりますが、この際対面を
許さず、これは忠興も書いている通り、家康の松平忠輝に対する対面禁止の先例を遵守したものでもあるのでしょう。
秀忠の死去により、完全に庇護者を失った忠長は改易され、寛永10年、切腹となりました。
客観的に見れば、将軍である兄・家光が主張する強い処分を、秀忠が何とか抑えていた、という所だったのでしょう。
おそらく家光が強い処分を行いたかったのは、忠長を憎んでいた云々という事よりも、諸大名からの、この件に対する「視線」
を感じてのものだったのでしょう。身内だからといってゆるく対処すれば、それだけ諸大名からの不審、侮りを受けるわけですから。
この忠興の報告は、そういった諸大名の「視線」を、端的に表しているものだと思います。
江戸幕府というものは、勿論あくまで同時代的な認識の内ですが、極力「公正」であることを心がけた政権であったと思います。
だからこそあれほど長く、安定した政権であったと考えます。
この件は、秀忠亡き後の家光政権にとって、そういった信頼を得るための最初のテストケースであった、
そのように見て良いかと思います。

2位はこちら!これが江戸瓦葺きの始めであるです!
近世における瓦葺きの普及は、火災対策であったとはよく言われるところですね。
しかし近世に入るまで瓦葺きの普及というのは遅く、それどころか板葺きですら珍しいとされ、秀吉の時代の大阪を訪れた
北条家の武士が、家々がみな板葺きであることに驚いた、なんてお話もあります。そういえば洛中洛外図に見える
室町将軍や管領の屋敷も、板葺きですね。京ですらその有様であり、瓦葺きというのは本当に一部の城や寺社に限られた
ものだったのでしょう。
それが江戸初期になると、関東の江戸で、半分とは言え民間人が瓦葺きを成し得たわけですから、そこから江戸の繁栄と
いうものも、充分に感じ取れたことでしょう。江戸城天守の鉛葺を讃えているのも、やはり瓦というものに、繁栄を見て取る、
当時の感性を感じさせます。
そんなことをちょっと思った内容でした。

今週管理人が気になったお話はこちら!龍造寺の鍋島がしたようなことです!
ここからは、当時の毛利家の内幕だけでなく、様々なことが読み取れますね。
吉川広家が毛利秀元の陰謀であると感じたのは、ある意味無理もないことで、この頃、秀元は藩主・秀就の名代として
毛利家を主導していました。である以上、この人質の件に秀元が関わっていると考えたのは、むしろ自然でもあったのでしょう。
また福島正則、黒田長政の名前が出てくる所から、これについて外交も影響を与えるものだ、という認識があったことが
わかります。そして岩国を領する吉川家にとって、広島の福島正則はまさに国境を接する隣国であり、これによる「讒言」
への警戒というのは、この時期の隣接大名同士の、相互監視を感じさせます。
そして「龍造寺の鍋島がしたようなこと」というのは、鍋島直茂が龍造寺家の実権を握って、結果的に乗っ取るような形に
成ったことを、秀元が同様の野望を抱いているのではないか、という懸念でしょうか。
当時のいろいろなことが読み取れる、非常に興味深い内容だと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気になったおはなしを見つけた時は、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/
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