638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/19(金) 15:20:18.90 ID:561gD9iY
今度の島原での切支丹(一揆)が起こった次第について、杢右衛門、善右衛門、宗意、
源右衛門、山善右衛門と申す者達、二十六年以前より、天草の内、大矢野、千束島と申す所に
数年山居していた所に、(寛永)十二年丑の六月中の時分より、かの五人の者申し廻して、
天草の内、かうつら(上津羅ヵ)と申す所に住居した。
伴天連は二十六年以前に、御公儀の御拂によって異国へと遣わされたが、その時伴天連は書物を以て
申し遣わした。そこには
『当年より二十六年目に当たって、必ず善人が一人生まれ出るだろう。その子は幼い頃から、諸学を極め、
天に印を現すだろう。木に饅頭が成り、野山に白旗立ち、諸人の頭にくるすら立つだろう。
東西に雲の焼けが必ず有るだろう。諸人の住居、皆々焼け果てるだろう。野も山も焼け、生きていけなく
なるだろから、書き置く。』
と申してあった。
天草に在った大矢野四郎という者を、この書物と引き合わせて考えてみた所、かの書物の通り
違わないとの事で、「さてはこれが天使であろう。」と諸人に対し、先の五人の者達が触れ廻り、
尊ばせた。この四郎は、生年十六歳であった。
切支丹(一揆)が起こった時分は、丑の十月十五日頃、天地が動くほどの不思議なることが出来た。
その時、「皆々驚いてはいけない」と、あの五人の者共が申し聞かせた。その人々は、かの五人が申す如く、
丑の十月一五日の夜に入り、俄に切支丹に立ち返り、村々にて頭だつ者達と談合し、脇々の者共もすすめ、
人数を催促し、島原所々の代官、並びに他宗の出家、切支丹に成らぬ者共を残らず斬り、
在々所々に引き籠もった。
『天草土賊城中話』
島原の乱の始まりについて
今度の島原での切支丹(一揆)が起こった次第について、杢右衛門、善右衛門、宗意、
源右衛門、山善右衛門と申す者達、二十六年以前より、天草の内、大矢野、千束島と申す所に
数年山居していた所に、(寛永)十二年丑の六月中の時分より、かの五人の者申し廻して、
天草の内、かうつら(上津羅ヵ)と申す所に住居した。
伴天連は二十六年以前に、御公儀の御拂によって異国へと遣わされたが、その時伴天連は書物を以て
申し遣わした。そこには
『当年より二十六年目に当たって、必ず善人が一人生まれ出るだろう。その子は幼い頃から、諸学を極め、
天に印を現すだろう。木に饅頭が成り、野山に白旗立ち、諸人の頭にくるすら立つだろう。
東西に雲の焼けが必ず有るだろう。諸人の住居、皆々焼け果てるだろう。野も山も焼け、生きていけなく
なるだろから、書き置く。』
と申してあった。
天草に在った大矢野四郎という者を、この書物と引き合わせて考えてみた所、かの書物の通り
違わないとの事で、「さてはこれが天使であろう。」と諸人に対し、先の五人の者達が触れ廻り、
尊ばせた。この四郎は、生年十六歳であった。
切支丹(一揆)が起こった時分は、丑の十月十五日頃、天地が動くほどの不思議なることが出来た。
その時、「皆々驚いてはいけない」と、あの五人の者共が申し聞かせた。その人々は、かの五人が申す如く、
丑の十月一五日の夜に入り、俄に切支丹に立ち返り、村々にて頭だつ者達と談合し、脇々の者共もすすめ、
人数を催促し、島原所々の代官、並びに他宗の出家、切支丹に成らぬ者共を残らず斬り、
在々所々に引き籠もった。
『天草土賊城中話』
島原の乱の始まりについて
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コメント
人間七七四年 | URL | -
宗意、と記されている森宗意軒はオランダまで渡航の経歴ありなんすかあの時代に
この人自身の与太話・法螺?あるいはオランダ側に記録があるのかしら
( 2021年03月20日 11:27 )
人間七七四年 | URL | -
>切支丹に成らぬ者共を残らず斬り
島原の乱の一揆勢は途中から暴徒化したとよく言われるが始めから中々かっ飛ばしてるな
( 2021年03月20日 13:28 )
人間七七四年 | URL | -
森宗意軒
と聞くとどうしても魔界転生が思い浮かぶ
( 2021年03月20日 15:17 )
人間七七四年 | URL | -
※2
一揆に参加したのは南目と呼ばれるキリシタンや農民が多い土地の人々で
北目と呼ばれる武士や町民の多い土地は一揆に参加しなかったので一揆側から攻撃を受けたらしい
天草一揆は宗教で語られがちだけど元々何らかの対立があったりしたんじゃないかと
( 2021年03月20日 16:00 )
人間七七四年 | URL | -
※4
元々キリシタン大名で領民全員を強制的(寺社とか破壊して)にキリシタン化させた有馬晴信の土地だから、棄教令以降も頑なにキリスト教を信仰する面々に対する風当たりは強かったろうね。
ついでに↑の予言を創作して天草(益田)四郎を大矢野四郎だとして担ぎ上げ、実質的に一揆勢を率いたのも有馬・小西の旧家臣団だし、天草四郎自身も小西行長の元側近の子で相応の教養があった。
一揆勢は単なる烏合の衆ではなく牢人衆が務める各奉行や組頭の下で組織化され、効率的に行動できるようになっていた。
北目と呼ばれる土地は藩庁の島原城の周辺なので藩の影響力が強く、港に備蓄されていた藩の銃器と弾薬を奪い圧倒的火力で武装蜂起の参加を強要する一揆勢を拒んで島原城に籠城している。
( 2021年03月20日 18:34 )
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