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慶長四年九月、家康暗殺未遂事件

2021年04月01日 18:33

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/01(木) 16:55:24.02 ID:orCSFoA9
慶長四年九月七日、家康公は大阪の秀頼に、九月九日の重陽の礼に伏見より御下りになられた。
大阪における宿舎は備前島であった。

家康公が九日に御出仕の所を討ち取るという企みがあり、打手の太刀取りは土方河内守(雄久)と
決定しており、これに大野修理(治長)、その他番頭共が加担しているとの沙汰があった。
これは増田右衛門尉(長盛)が内々に申し上げた内容である。

御出仕しても討たれることの無いように、伏見に召し置いてあった人数を召し連れ下る、との御意にて、
平岩主計頭(親吉)が伏見の御城へと罷り下った。
御留守には三河守殿があり、騒動のために、城中には西の丸に鑓二百本、鉄砲二百人、大手に高屋左近、
舟入の方口に水谷右京、松の丸には物頭衆、舟入にも物頭を遣わし、即座に城を堅めた。
馬は三疋のうち、一疋は鞍を置き、一疋は鞍を置き泥障(あおり)をささず、一疋は轡ばかりの
裸背であった。

大阪においては、備前島の御座所は如何と申し、増田右衛門尉の屋敷に仮に移られ、十二日が過ぎて
大阪城中に石田木工頭(正澄)が家を立ち退き、その身は堺へ参った(元来堺奉行)。
木工頭は一万石の身上であったが、当座御座あるには狭くはなかった。

程なく、二十日ばかりの内に、政所(高台院)が「木工頭家は用心も如何か」として、大阪から京に
御上がりになった。政所御家は禁中の南、秀吉公が京へ御上る時の御家であった。
誰も申さないが、政所のお計らいであり、家康公は政所の御座所へお移りになった。
西の丸と申す曲輪であった。
木工頭家には平岩主計頭が移った。

(慶長年中卜齋記)

慶長四年九月の、家康暗殺未遂事件について



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