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島津龍伯と、家康公は知人に成りたいと

2021年04月09日 19:05

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/09(金) 16:28:12.47 ID:OUsGcfDn
慶長四年の冬、島津龍伯(義久)と、家康公は知人に成りたいと思し召されていたが、その頃は
大名附合というものがなく、法度で決まっていたわけではないが、自ずから通法であった。

江戸の御扶持人に流竿という目薬師があった。彼は元々薩摩の者であり、お召になってこの流竿に
お尋ねに成られた

「龍伯とは知人であるか。」
「未だ一礼を申したこともありません。」
「伊集院幸侃(忠棟)といって、島津の家老大名が有る。これは知人か。」
「知人であります。」
「では使いに参れ」

そう仰せ付けられ、樽に白鳥、小袖を添えて遣わした。

それより直ぐに、龍伯も御礼に参り、進物として無量(無量寿経カ)十巻、朝鮮馬一疋(ブチ)。
家康公は路地の外まで迎えに出て、御同道して数寄屋へ御連れ立ち、半時(約一時間)ばかり
お話された。菓子も薄茶も出ず、御家中衆、小姓すら御次に参らせなかった。
龍伯が帰る時も又、家康公は路地の外まで送られた。初めての御対面であったが、進物の披露も無かった。

龍伯は祐乗坊と申す薬師を御門まで同道していた。家康公が龍伯を迎えに出られた時、この祐乗坊も
御覧になったが、兎角の御意も無かったため、門外より祐乗坊は帰った、

龍伯が進上した馬は島津駮と言って御秘蔵され、関ヶ原へも召され、駿府までも、十年余召されていた。

慶長年中卜齋記



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    慶長4年=関ヶ原の前年。
    お近づきになりたいと言っておいて、進物の披露もそこそこに、「薄茶も菓子もなし=誰も近づかせず」 トップ会談でヒソヒソやっていたわけですか。
    上杉征伐が始まるまで義久は義弘が西軍側とズブズブという話も現地の緊張感も理解していなかったという説もあるので
    家康さん的には「義久くんおさえたから島津はもう大丈夫やろ」的な認識があったのかもしれない。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    島津と明とで秀吉打倒計画が立てられて
    いたらしいと言われています。
    明の記録に「義久は三弟(歳久)と四弟
    (家久)の事で秀吉に恨みをもっていた」
    書かれているのでそう思われていたようです。
    そして家康はその事を察知していたと
    いう説が数年前に朝鮮出兵の講座で聞きました。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    朝鮮馬といえば済州島のチョランマル
    ちっこくてかわいいらしい

  4. 人間七七四年 | URL | -

    九州には馬がいないから
    急遽朝鮮馬を連れて来たんだろうけど
    関東は馬の産地だから家康も困惑しただろうな
    とはいえ尊重しないと何のために会合したのか分からんし

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ウシウマではなさそうですね。
    (義弘が鹿児島に持ち帰っています)
    あと、義弘が書いた記録に朝鮮の馬は日本の馬
    に比べて人に馴れなくて手懐けるのに苦労した
    らしいです。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    薩摩馬は当時割と有名やったで
    朝鮮馬はモウコウマの子孫やから普通に優秀やったんとちゃうか

  7. 人間七七四年 | URL | -

    世界ふしぎ発見で『(ゴーストオブ)対馬』特殊やった時も対馬馬の紹介があった。
    小型だけど高低差のある対馬で産まれ育ったので坂に強いって特性があるらしい。
    しかも驚いた事に完全野生馬として保護されていて、生息地に人間立ち入り禁止なんだと。
    「いや馬なんてみんな坂強いだろ」って思われるカモ知れないが、俺ん家(千葉の田舎)だと『馬頭観音』は古い街道の坂道にあって、コレは坂道(主に下り坂)で死んだ馬の供養と安全を願った物なんだってさ。

  8. 人間七七四年 | URL | -

    貴久がアラビア馬を輸入していたと聞いたことが
    あります。
    義久が九州最大級の放牧場の福山牧を作った話
    (現在の霧島市福山町牧之原)があります。
    あと、菊池寛が他の作家から小説のネタにするので
    江戸時代の九州の馬の産地を聞かれた時に薩摩を
    あげていたそうです。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    薩摩と馬といえば「春駒」という雅な名前のういろうみたいなお菓子があったっけ

  10. 人間七七四年 | URL | -

    9殿
    春駒はもともとは別の名前でしたが
    大正天皇が鹿児島に行幸したとき、この
    お菓子の名前を聞かれたので当時の
    鹿児島県知事か島津久光がとっさに
    「春駒です」と答えたのが由来とされて
    います。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    ※10
    それまでは「うまんまら」(馬のチ〇コ)とかいう名前だったんよね

  12. 人間七七四年 | URL | -

    ※11殿
    本来は別の名前だったのですが、
    今の春駒よりも昔は長さがあったので
    そういう呼び名で呼ばれたという経緯が
    あります……(※10)

  13. 人間七七四年 | URL | -

    12の続きです。
    鹿児島城下の新照院通町(現在の鹿児島市
    新照院町)に住んでいる武士が生活の為
    お菓子を作り「新照院団子」と呼ばれる
    そのお菓子が数十センチあった為※11殿が
    言った名前で呼ばれる。
    明治になって※10の状況になり「春駒」
    になって現在に至ります。
    ちなみにこのお菓子を作った武士は
    お菓子が沢山売れたお金で出世した
    らしいです。(※10)

  14. 人間七七四年 | URL | -

    今流行りのウマ娘に
    「黒馬をイメージした、ウマ娘にぴったりのお菓子です」
    と言って食わせたら話題に

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