111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/13(火) 13:29:09.18 ID:XJHU+raM
(慶長四年二月、徳川家康は石田三成等による伏見の家康屋敷襲撃の風聞などにより、伏見城の支城である
向島城へと移ったが)
「向島に御座されるのは如何か、伏見の城を明けるのでお移り然るべし」と、三奉行(長束正家、
増田長盛、前田玄以)が頻りに申してきた。大谷刑部少輔(吉継)が内々の使いとして肝煎と成り、
雅楽頭(酒井忠世)、帯刀(安藤直次)、式部少輔(榊原康政)が表の使いとしてこれに合意し、
四月六日、伏見城にお移りと成った。(創業記に閏三月十三日午の刻伏見の城お移りとあり)
鑓五十本持たせ、御先の小姓、その他の詰衆五十余輩が歩行にて御供をした。御乗物、鑓二本、
長刀一、挟箱二、御跡に三河守殿(結城秀康)が馬に御乗りになり、白き袷袴にて、供の衆二十人ばかり
お連れに成った。御家人については、いつであっても罷り出て御目に掛かるべしとの事で、
この日は上記の人々のみで、他には誰も御供には罷り出なかった。
(慶長年中卜齋記)
家康の伏見城入城について
(慶長四年二月、徳川家康は石田三成等による伏見の家康屋敷襲撃の風聞などにより、伏見城の支城である
向島城へと移ったが)
「向島に御座されるのは如何か、伏見の城を明けるのでお移り然るべし」と、三奉行(長束正家、
増田長盛、前田玄以)が頻りに申してきた。大谷刑部少輔(吉継)が内々の使いとして肝煎と成り、
雅楽頭(酒井忠世)、帯刀(安藤直次)、式部少輔(榊原康政)が表の使いとしてこれに合意し、
四月六日、伏見城にお移りと成った。(創業記に閏三月十三日午の刻伏見の城お移りとあり)
鑓五十本持たせ、御先の小姓、その他の詰衆五十余輩が歩行にて御供をした。御乗物、鑓二本、
長刀一、挟箱二、御跡に三河守殿(結城秀康)が馬に御乗りになり、白き袷袴にて、供の衆二十人ばかり
お連れに成った。御家人については、いつであっても罷り出て御目に掛かるべしとの事で、
この日は上記の人々のみで、他には誰も御供には罷り出なかった。
(慶長年中卜齋記)
家康の伏見城入城について
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