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秀吉公が伏見より京に御上りの時は

2021年04月15日 18:41

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/14(水) 16:31:28.09 ID:y3sC1VPk
秀吉公が伏見より京に御上りの時は、奉行衆、御咄の衆合わせて五十人が従った。
二十町ほど御先へ、朱柄、虎の皮の抛鞘鑓二十づつ、真っ直ぐに立てて持ち、遠くからも
上の御成と見えた。
御供の衆は袴、道服で御跡に押も無かった。
これに付き従う下々も二百人程もなく、大方百人ばかりか。

東福寺前をお通りになる時は、御供の衆、内の者は竹田を通り、また竹田をお通りになると
東福寺前は御供の騎馬が際限無かった。

見渡しの道であれば、御乗物にてお通りになるのだが、竹田通りは騎馬が間近に見えたが、
下馬させる事は無かった。

総じて、秀吉公は小身なる侍を役に用いられなかった。姫路衆と申す十万石(千石)より内の侍で、
三、四百石の衆二百余騎ほどもあったのだが、彼らは一ヶ所の屋敷に集められ、番も普請も
免除されていた。

慶長年中卜齋記



115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/15(木) 03:03:46.35 ID:ZkfH8mK0
>十万石(千石)
これもうわかんねぇな

122 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/04/17(土) 10:41:30.49 ID:syCTQh44
>>115
多分、投稿者は国会図書館デジタルの史籍集覧から引用してると思うんだが
該当箇所の解説で、底本はこうだが別本の「卜斎覚書」ではこう書いてあるから()書きで注してあります
と書いてあるよ

10万石よりは1千石の方が正しいんだろうね
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    仙石のことでもないよね?

  2. 115 | URL | -

    400石の侍が250人いれば10万石になるのでまあ計算は合う
    合うのだがなぜ直後に(千石)をつけてしまったのか

  3. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    原文はどうなっているだろうか?
    >姫路衆と申す十万石(千石)より内の侍で、
    三、四百石の衆二百余騎ほど
    (千石)は後で現代文にする時に付け加えたもので、「十万石より内の侍で、三、四百石の衆二百余騎ほど」だとすると、十万石は大名では無い(後の徳川の基準の一万石でも良い気がするが)小禄の知行の侍が親衛隊として従ったて意味なのかなあと思うけどどうだろう?

  4. 人間七七四年 | URL | -

    「姫路衆と申す(全員の合計ほぼ)十万石、(千石より内の侍=千石未満の侍)三、四百石の衆二百余騎ほど」
    というのが原文の意図ではないでしょうか?

    三、四百石ももらっている侍が「一ヶ所の屋敷に集められ」「番も普請も免除」というのは珍しいことだったのかな
    でも小説で千石未満はたいてい無役、というのを読んだことあるけど

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ただ単に誤記だったらしいというオチですか

  6. 人間七七四年 | URL | -

    そういや関ケ原の後、豊臣が60万石に減らされたと言うが
    傘下大名やこういう姫路衆みたいな旗本の所領は入っていないみたいだね
    この時期の大名の直轄領が大体表高の15~30%だから、
    軍事力はともかく豊臣の経済力は200万石クラスはあったということだね

  7. 115 | URL | -

    122で別本説をみて納得した
    10万石は総数、1,000石は個人にフォーカスした数字で多分どっちも正しいんだわ

  8. 人間七七四年 | URL | -

    ※6
    設定されていた蔵入り地はそのまま残っていたからね。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    ※6
    その石高自体が摂津河内和泉の石高を適当に足し合わせただけで典拠も廃絶録か何かで当てにならない筈
    逆に摂津河内和泉でも豊臣家に関係ない人に与えられた所領もあるので研究が進まないと実態はよく分からないね

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