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しかるに一鉄斎は

2021年04月25日 16:32

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/24(土) 20:42:27.57 ID:zfA73aqp
しかるに一鉄斎(稲葉良通)は勇猛の剛将たる故に、生涯の内には不義不仁の事が多かったのだという。

傍友の安藤伊賀守(守就)が信長の意に違えて居城の鏡島を改易せられ、濃州を追放された時に稲葉が
郎等を鏡島に遣わして狼藉をさせたなどの事は、もってのほかの不道である。

それ故にその臣・斎藤内蔵助利三や那波和泉守(直治)などがこれを憎んで稲葉の家を出て、明智光秀
に仕えた事などがあった。その他に斎藤に背いて織田家に身を寄せた事も、天下国家のためといえども
実際は非義の振る舞いである。

しかして天正9年(1581)の正月元日に揖斐光親を攻め落とし、これより発心したという。三代相
恩の主君の連枝を追い落したことは本意にあらずと思い、入道して一鉄斎と号しける。さればその後か
らは善道を行ったといわれている。

それ故なのか、天正10年の夏であったが当国の先の太守・土岐頼芸は斎藤道三のために国を奪われ、
零落の身となってその頃は上総の国の海喜という所に蟄居しておられたが、この人は先年より眼病を受
けて悩み煩い、後には盲人となり、剃髪して宗芸と号し、世を頼みなく暮らしておられた。

稲葉一鉄斎は情を思い出し、君臣の義を重んじて痛ましく思い、なにとぞ宗芸入道を美濃国に帰し迎え
参らせんと欲した。しかしながら一鉄斎は先年に揖斐五郎を攻め出した頃のことなれば、これを聞かれ
たら自分を恨まれて来向なさるまいと思い、それより思慮をめぐらせた。

厚見郡江崎村に住む江崎六郎というのは頼芸の末子なる故に、すなわちこれをもって迎えのために遣わ
そうと六郎を尋ね出して、その事を申し含めた。しかし六郎は幼少で頼芸と別れて長らく父子の対面も
していない事ゆえ、心許なく思った。そこで乳父の十八条村の住人・林七郎右衛門を差し添えて、天正
10年7月、上総の国へ遣わし、宗芸を呼び迎えた。これによって頼芸入道は再び当国に来向せられた。

すなわち一鉄斎はこれを請じて大野郡岐礼村に新館を構えて頼芸を住せしめ、米2百石を参らせ、侍女
5,6人を付けて労わった。もっともこの岐礼の里は稲葉がしばらく住んだ所である。

しかるに頼芸は同年12月4日、仮初に病に伏してついにこの所で逝去なり。法名・東春院殿前濃州大
守左京大夫文閣宗藝大居士、年齢82歳なり。すなわち一鉄斎より南化玄奥和尚を招き、導師とせり。

――『美濃国諸旧記



136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/25(日) 19:44:32.71 ID:XU/4bKMy
>>135
地元の史書で不義不仁言われちゃうのがなんとも
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    一鉄って強いけど相当な曲者だよな
    上の者が弱みを見せるとすぐ変な動きしだす

  2. 人間七七四年 | URL | -

    信長傘下で言うと荒木村重なんかと同じく典型的な国人領主というわけだ
    こういうのが本拠地の近くで活躍できるぐらいには信長の支配体制は戦国期の延長であって、近世は豊臣・徳川を待たねばならん

  3. 人間七七四年 | URL | -

    でも信長は安藤は切り捨てて稲葉は残したんやな
    どっちも変な動きはしてたんだけど

  4. 人間七七四年 | URL | -

    本能寺の変後の美濃の国人衆の動き結構好き
    なんか”やっと重しが取れたー”みたいに自由に動き回ってて 

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    ただ、信長存命中から自由だったあの人が北信から帰って来てヒャッハーしまくるからなあ~w

  6. 人間七七四年 | URL | -

    >>勇猛の剛将たる故に、生涯の内には不義不仁の事が多かった

    本多忠勝・立花宗茂あたりも今後このようなエピソードが出るワンチャン

  7. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    光秀が東進して美濃に介入してたら一層のカオスに

  8. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    仮に信忠が逃げてこれても、この状態で統帥権握れたのかな?

  9. 人間七七四年 | URL | -

    ※8
    信忠が生きていたら、そこまで美濃が混乱していなかったかと思うよ。
    確かに信長が居なくなって混乱は有るだろうけど、信雄、信孝の有力な兄弟や重臣達は信忠の元一致団結して光秀追討になると、光秀に味方して反抗する奴は居なくはないけど、史実より少ないかと。
    甲斐とかは武田旧臣が蜂起するだろうけど。

  10. 人間七七四年 | URL | -

    前当主横死からの代替わり(信忠の場合家督は既に譲られてるが)で上手くいった家なんてあるか?と思ったがそもそもそんな事例が織田ぐらいか

  11. 人間七七四年 | URL | -

    ※10
    >そんな事例が織田ぐらい
    氏真「せやろか」

  12. 人間七七四年 | URL | -

    ※11
    今川氏はなあ。
    父義元は兄氏輝急死の後、兄弟間の家督争いに勝って得たもの(その顛末が花蔵(花倉)の乱)だし、その父氏親も父義忠が遠江遠征時に横死して、一族の小鹿範満が当主代行(当主になっていた説も有ったかと)のを叔父伊勢新九郎の助力を得て、範満を討って家督を得ているからねえ。
    こんだけ代変わりが色々有る家も珍しいかと。

  13. 人間七七四年 | URL | -

    ※12
    義元から氏真が既定路線で珍しく円満な権限移譲かと思ったらアレ
    ツイてないとしかいいようがない

  14. 人間七七四年 | URL | -

    戦国時代だけではないけど、家督を巡る争いは多いよね。
    応仁文明の乱にしてもそもそもが畠山氏の家督争いに将軍家の後継者問題が加わって、争い出したのが原因ですし、その前の嘉吉の乱にしても義教が赤松氏の家督相続問題に介入して、排除されると思った性具さんの暴発が理由だったかと。(確か今川氏の小鹿氏もその頃の今川氏の家督相続問題が有ったかと。)
    室町幕府は有力大名の家督相続問題に介入して有力大名を抑える政策取ってましたが、義満の頃は上手く行っていたけど、義政の頃は上手く行かなくなってますよね。

  15. 人間七七四年 | URL | -

    >性具さんの暴発
    わかってても笑うわこんなんw

  16. 人間七七四年 | URL | -

    ※15
    そんな貴方には「赤松性具」でググる(・ω・)ノ
    管理人さんの10年前のTwitterの弁が楽しめますよw

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