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朝鮮から見た閑山島海戦

2021年05月02日 16:32

李舜臣   
696 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/01(土) 22:44:56.03 ID:IR0t3pqK
日本軍は釜山、東莱を落とし長躯進撃した。公(李舜臣)は兵を移してこれを討とうとしたが配下の諸兵が
持ち場を離れできなかった。
公は「今は死んでも賊を討たねばならぬとき。諸堡の兵を集め出発する」と言ったが、たまたま
慶尚右水使の元均が援兵を乞うてきたので、早速兵を率いて玉浦に行き、万戸の李雲竜、禹到積らを
先鋒として日本船三十を破って固城に到着した。
しかし漢城は落ち国王も落ちのびたと聞くと、西に向かって落涙して水師営に帰った。また元均
兵を請うたので、露梁に向かい十三隻の日本船を破り、追撃して泗川に行った。肩に弾丸が当たっていたが
一日中、弓をもって指揮していたので気づかなかった。六月にまた唐浦で戦った。日本軍は層楼の船に
乗ってきたが片箭で金冠、錦袍の大将を倒し、賊軍は壊滅した。賊船は続いてやってきたが、
公は分捕った日本船を船隊の前に並べ、賊が近づいたところで火をつけた。火薬が爆発炎上し
賊は大敗して逃げ去った。ここに全羅右水使の李億祺も合流。固城の戦いでは今度も層楼の大将を撃ち殺し、
三十余隻の日本船を破った。賊は陸に上がって逃走し、公は李億祺と共に営に帰還した。
賊は湖南(全羅道)に向かい、公も固城に兵を進め、賊船は大勢で攻めてきたので退却しながら閑山島沖に
誘い出して七十余隻を打ち破った。賊将平秀家は逃走して死者数万を出し日本兵は恐れ震えた。

697 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/01(土) 22:53:13.73 ID:IR0t3pqK
公は陣中で昼夜を問わず厳重に警戒し兜を脱いで寝たことがなかった。ある名月の夜、
公は起きだして酒を飲み、諸将を呼び出して「敵の策は相手を欺く手が多い。月のない夜は我を襲い、
月明かりの夜も攻めてくる。警備せざるべからず」と錨を上げるよう命じた。そこへ偵察から
賊船の報が来たのである。賊船は暗闇から現れ出で、公の船が大砲を撃って突進すると他船も続いた。
賊はこれを知って引き揚げていった。このことから諸将は公を神のごとく思ったのである。
公は釜山に進んで賊の根拠を攻めようとしたが、賊は砦を作り高所に上がってしまったので
空船百余隻を焼いて帰還した。

李忠武神道碑(1793年、当時の国王正祖の顕彰事業による建立)

元均は、17世紀中は李舜臣と共にとにかくまあ頑張ったよねと評価されていたが、この顕彰事業で
英雄の足を引っ張った無能な悪役視が確定、現代韓国まで続く



703 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/05(水) 10:09:03.11 ID:yttfMbm+
それと>>696の賊将平秀家というのは、まとめサイトの「1599年北京、「戦勝」式典」を思い出しますな

当事国の朝鮮でも、後世には敵将の情報もそういう体裁になってしまっていたのか
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    李舜臣は大軍を率いて国を護るタイプじゃなくて
    散発的に局地戦を仕掛けて勝利を収めるゲリラタイプだと思う
    日本で言えば楠木正成

  2. 人間七七四年 | URL | -

    朝鮮では脇坂安治が水軍で最強武将として名高いらしいですね?
    確かに武功上げてるけど、マイナー武将がってのがちょっと意外です

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