707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/07(金) 15:33:36.81 ID:c8NMKRSI
長久手の戦いの時、(信雄・家康方の)岩崎城には丹羽勘助(丹羽式部先祖)が取り籠もっていた、
しかし勘助は出陣しており、留守としてその舎弟・次郎助が在った。
池田信輝(恒興)公はこの岩崎城を攻め落とし、城中の人兵を斬り滅ぼした。次郎助は土肥飛騨が
討ち取った。
「ここにて一端、御備えを据えるべきです。」と、池田家の御家老共はたって申し上げたが、
恒興公は「少しでも早く三河の岡崎を取りたい。」と思し召し、お急ぎの故、先行させた先手は
矢作の橋の際まで行き着いていたという。しかしこの時、跡より鉄砲の音聞こえたため引き換えされたが、
すぐに恒興公は討死なされたという。
「烈公間話」
長久手の戦いの時、(信雄・家康方の)岩崎城には丹羽勘助(丹羽式部先祖)が取り籠もっていた、
しかし勘助は出陣しており、留守としてその舎弟・次郎助が在った。
池田信輝(恒興)公はこの岩崎城を攻め落とし、城中の人兵を斬り滅ぼした。次郎助は土肥飛騨が
討ち取った。
「ここにて一端、御備えを据えるべきです。」と、池田家の御家老共はたって申し上げたが、
恒興公は「少しでも早く三河の岡崎を取りたい。」と思し召し、お急ぎの故、先行させた先手は
矢作の橋の際まで行き着いていたという。しかしこの時、跡より鉄砲の音聞こえたため引き換えされたが、
すぐに恒興公は討死なされたという。
「烈公間話」
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コメント
人間七七四年 | URL | -
詳細は知らなかったなこの件
( 2021年05月07日 18:27 )
人間七七四年 | URL | -
「奇襲なのにぐずぐず進軍していた」「途中の城に引っかかっていた」という通説への反論だな。
光政の時代には既に通説として流布していたんだろうか。
( 2021年05月07日 18:52 )
人間七七四年 | URL | sSHoJftA
矢作橋の架橋って、1601年じゃなかったっけw
( 2021年05月07日 21:17 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
※3
秀吉「気にするな」
蜂須賀小六「んだんだ」
( 2021年05月08日 03:12 )
人間七七四年 | URL | -
*3
こういう事とか?
>先行させた先手は(現在の)矢作の橋の際まで行き着いていたという。
後々に書かれた事だから自分の想像だけど、
・上記の様に間に略された文言が有った。
・光政または記録した人間が分かりやすい様に?大まかな位置を矢掛橋の際として述べるか書いた。
・光政または記録した人間が普通に小牧長久手合戦当時は矢掛橋がまだ無かった事を知らなかった。
のどれかかと。
( 2021年05月08日 04:02 )
人間七七四年 | URL | -
※5
本能寺の変みたいなビッグイベントだとこんな一言がミステリーの対象になるけど、
真実は案外3番目だったりするのかもね。
( 2021年05月08日 08:19 )
人間七七四年 | URL | -
*6
池田家の人々も故地の尾張を離れて長い上に、世代交代や入れ替わりも進んだりで、語った池田光政当人含めて矢作橋がいつ出来たなんて知らない人も多そうだし、そうかも知れんね。
( 2021年05月08日 09:02 )
人間七七四年 | URL | -
矢作の端を書き間違えて橋って書いちゃったのかもしれない
( 2021年05月08日 09:57 )
人間七七四年 | URL | -
矢作橋が出来たのが、1601(慶長十一)年、烈公光政が生まれたのが、1609(慶長十四)年、亡くなったのが1682(天和二)年、烈公間話が成立したのが、1690(元禄三)年だからねえ。
光政がこの話をした時がいつかはわからないけれど、17世紀後半頃に光政が昔当時を知る家臣から聞いた話を語ったものを家臣が書き記したものだろうから、おそらくは
1.当時を知る家臣が光政に間違えて話した
2.光政が間違えて覚えていたのを話した
3.烈公間話を書いた家臣が間違えて覚えていた
かと。皆が言う通りじゃないかな。
( 2021年05月08日 11:26 )
※9 | URL | -
1601(慶長六)年だった。スマン。
( 2021年05月08日 15:15 )
人間七七四年 | URL | -
当時の橋は舟橋が主だから、本格的な架橋とは違うかも。
( 2021年05月09日 09:01 )
人間七七四年 | URL | -
恒興はせっかち
( 2021年05月11日 15:47 )
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