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車懸りの陣について

2021年05月31日 18:28

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/31(月) 15:28:14.54 ID:PkbNsYg0
第五度目の、最後の川中島合戦は、永禄四年九月十日であった。この次第は別巻に註する故これを略す。

総じて近年、世上において『車懸り』という手立てを、川中島合戦で上杉謙信が用られ、それは
いく廻り目にて、旗本と敵の旗本が打ち合いをする手立てであるのだという。
これについて、当家上杉方においては、遂に聞いたことがない。

尤も、家の法に車懸りという、備えの懸け方がある。これは、敵が戦地に先立って備えを立ち固めており、
我が方は行き懸かりに押しかけつつ、備えを立てようとする所を、敵が待ち受けて、我が方が
備えを立てるため軍の形が変化する所を、敵が打とうと企んでいる、という場合において、
我が方が車懸りという手立てで備えを懸ければ、その事によって、備えを立てるために変化した所に、
敵が打とうと懸かってきても、返って我が方の大利となり、遂に勝利を得るという秘術である。

されども、五度目の川中島合戦で謙信がこのような車懸りをしたという事は無い。
但し、第三度目の弘治二年三月二十六日、川中島合戦の退き口に、謙信が「車返し」という手立てにて、
武田信玄方を引き包んで打ち取り、戦に勝ったことを、聞き誤って言い伝えられているのではないだろうか。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

寛文元年(1661)二月十三日の奥書のある、上杉家家臣、丸太左門友輔が著したとされる記録より、
車懸りの陣について



790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/31(月) 22:01:12.30 ID:EIPAA98W
乃至政彦説だと村上義清の上田原合戦の戦法をヒントに
第四次川中島で兵種別編成を整えた謙信が信玄の首を狙ったところ
信玄がわざと「車懸かり」と由緒ありそうな名前をつけて
上田原合戦での苦戦を想起させないようにさせただけで
上杉家では「車懸かり」という名前など徳川時代になるまで知らなかったとか書いてたっけ
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | 8kSX63fM

    うーむ
    約100年後に記された異説か・・・

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ※1
    軍記作家がゼロから創り上げた通説よりはマシな気もする

  3. 人間七七四年 | URL | 8kSX63fM

    『総じて近年、世上において『車懸り』という手立てを~~~~~する手立てであるのだという。』という伝聞調、著者とされる丸太左門友輔はどういうもので見聞きしたんだろうな。
    戦乱の世が過ぎて数十年たったころ、いつのまにか当の上杉家のあずかり知らぬところで俗説が生まれていたということなのか?
    今日の日本にも旧日本軍の作戦・会戦を研究分析する人がいるのと同様、この頃の日本は武家社会の中でこうした研究が流行っていたのかな。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ジープで武田勢を圧倒してるの映画で見たよ

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ※3
    宇佐美定祐という胡散臭い軍学者が書いた北越軍記という胡散臭い軍記物を聖典とする越後流軍学という胡散臭い兵法があるのです

  6. 人間七七四年 | URL | -

    車掛かりにする余裕と機動力があるのなら
    それで片翼包囲した方が効果的だしね
    元ネタは宇佐美定行という架空の軍師をでっちあげた軍記物だし

  7. 人間七七四年 | URL | -

    車懸は甲陽軍鑑がネタ元では

  8. 人間七七四年 | URL | -

    上杉謙信が抜刀牙の使い手だった可能性ないか?

  9. 人間七七四年 | URL | sSHoJftA

    ※6
    「真説・川中島合戦」だったかが、後続部隊を展開して片翼包囲を図ったのが車懸り扱いされたという説を掲げてたな。(ただし著者本人が書いているように根拠不足)

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