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賤が植うる 田歌の聲も都かな

2021年06月08日 17:10

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/08(火) 12:48:59.84 ID:bZSdvN0k
慶長三年、会津に上杉景勝が入部した時、蒲生家の浪人数百名を召し出した。栗生美濃守、外池甚五左衛門、
岡野左内、布施次郎右衛門、北川図所、高力図所、青木新兵衛、安田勘助、小田切所左衛門、
横田大学、正木大膳、長井善左衛門、佐野源太、堀源助、等である。
この時関東浪人には、山上道及、上泉主水、車丹波守、等数十人、
上方者には、水野藤兵衛、前田慶次郎、宇佐美弥五左衛門など数十人が召し抱えられた。

このうち前田慶次(利益)は、加賀(前田)利家卿の従弟である(実際には甥)。
彼が初めて景勝に礼を申し上げたときは、穀蔵院ひよつと斎と名乗った。
その夏頃であったか、高宮の二幅袖の帷子褊綴を着し、非常に異形なる体であった。
また、彼は詩歌の達者であった。直江山城守兼続も学者であった故に仲良く、
直江宅にて慶次は論語の講釈をいたし、又は源氏物語の講釈をした。

慶長五年九月、景勝の名代として、直江山城守が四万余にて最上に出陣した砌、慶次は黒具足に猩々緋の羽織、
金のいらたか念珠(修験者の用いる角のある108の珠を用いた数珠)を頭に懸けたが、念珠の房には
金の瓢箪が付けられ、背に下るようにかけられた。
河原毛の野髪、大しだの馬に、金の兜巾を冠らせて打ち乗り、三寸計りの黒の馬に、緞子の袋に
干し味噌、乾飯を入れ鞍壺に置き、種子島ニ挺付けて、乗り換えとして引かせた。

最上からの上杉勢の退き口の時、敵勢と槍を合わせて、その高名は耳目を驚かせた。
水野藤兵衛、藤田森右衛門、溝口左馬助、韮塚理右衛門、宇佐美弥五左衛門と慶次と、以上五人が、
一所にて槍をした。

この時、最上義光は伊達政宗よりの加勢を一手に合わせて、上杉勢の退き口を追撃したため、
中々大事に及び、杉原常陸介、溝口左馬助らが種子島八百挺にて防ぎ戦ったが、最上勢は激しく
攻撃してきた。これに直江山城守は怒り出し

「味方が押し立てられて足を乱し、追い打ちに遭うのはもはや間もなくの事だろう。さても口惜しい。
腹を切らん!」

と言い出したところを、前田慶次が押し止め

「言語道断!左様に心弱くて大将が出来るでしょうか。私におまかせ候へ!」

と言うと取って返し、先の通り、水野、韮塚、藤田、宇佐美と、この慶次の五人にて槍を合わせ、
最上勢を突き返し、能く引き払い、何事もなく引き取った。

関ヶ原御陣過ぎて、景勝が米沢に移封された時、慶次を諸方より欲しがり、高い知行にて呼んだが、
「我が主は景勝より他は無し」とて、一生妻子も持たず、寺に住居しているかのように生活し、
在郷に引き込んで、弾正定勝の代に病死した。

慶次は連歌を嗜み、紹巴が評価した句も数多あるが、その中より覚えているものを記す

『賤が植うる 田歌の聲も都かな』

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記



254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/08(火) 14:53:36.83 ID:KzHVeQpO
花の慶次の名場面だったな
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    花の慶次での皆朱の槍か。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    兼続は戦下手と言われることもあるけど、この時の直江軍の撤退の見事さは最上からも称賛されてるんだよね

  3. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    懸かり引きの伝説によれば「全力でぶっ叩く→隙ができる→逃げる」というそこそこ脳筋な戦法だった模様
    まあ成功すれば理想的な撤退戦だし実際成功させてるんだから褒められてしかるべきではある

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    士気はともかく上杉勢の方が圧倒的に数が多いので

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    義元「まあ負けても命までは取られへんやろ」

  6. 人間七七四年 | URL | -

    最期はよくわからないんだよな慶次

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