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蔵人元康は岡崎へ御帰城、諸人喜ぶ

2021年06月12日 18:00

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/12(土) 16:45:03.01 ID:B6TEFUdv
後奈良院の頃、将軍は義晴、管領は細川高国入道常桓なり。今川義元は三州、遠州、駿州を御従え、
近国に威を振るった。織田弾正(信秀)も義元公に属す(織田弾正モ属義元公)。

天文23年2月、小田原の氏康と義元が取り合い、尾州の織田弾正忠、同三郎五郎(信広)父子が
三州に出張して安祥を乗っ取ったので、吉良が働き渡利・下渡利・和田の本陣が小豆坂へ押し出す
(小豆坂の戦い)。義元は戦い、ついに西勢は負けて安祥に引き、大勢追い討ちして東勢は藤川に
引いた。年号は天文22年と書いてある。

また東勢は安祥へ明くる夜中に取り掛かり、三郎五郎を生け捕った。戸部新左衛門(政直)が詫び
言、竹千代と人替えとある。相違なり。

永禄元年、竹千代17才の御年、駿河にて御年を重ね、蔵人元康は岡崎へ御帰城、諸人喜ぶ。

永禄8年5月、義元は駿・遠・三2万4千の勢にて尾州退治せんと発向(二万四千ノ勢尾州退治セ
んと発向)、元康公24才、尾州・三州の境の泉田に陣取、桶狭にて討死。相違なり。

元康公は大高の城より品野村へ掛かり猿投山の北後へ出て、梅ヶ坪へ掛かり筈利へ打ち越し、大川
を下り岡崎へ入られた。

今川氏真は23歳で父義元は討死し、弔い合戦の心掛けもなく二浦庄を立ち花月の遊興ばかりなり。

――『三河東泉記



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    氏真は謙信が関東に来襲したせいで大変だったのに可哀そうすぎる

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ※1
    敗戦後の大事な時期を北条への援軍で潰されたんだもんな
    とはいえ援軍を断ったら手切れも同然だしどうしろというんだって感じ

  3. 人間七七四年 | URL | -

    勝頼「判断に悩む時って有るよね」

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