815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/19(土) 17:30:35.32 ID:J7jDc0MV
この節、家康公は浜松におられ、天正3年には岡崎は三郎信康公、御守は小河の城主・石川備前守(数正)、
平岩七之助(親吉)などなり。家康様の御前・築山様は菅生の築山に御屋敷あり。信康公の御屋敷は城外の
北東に当たってあり、今の久右衛門町である。この節、御前築山様が御留主にて、殊に御仲も不和なりし。
その頃、甲州より口寄せ巫女数多来たりて、家中町村を廻って口寄せした。この時、勝頼(武田勝頼)より
巫女を騙して築山殿の御内にて下女に色々取らせて取り入り、下女より中間に取り入り、後には奥上﨟たち
までにいろいろの進物を致して取り入り、ついには御前様に御目見え申し上げてよく取り入り、折を見合わ
せて申し上げるには、
「もし御前様が今度勝頼と御一味なされば、(欠字)御前は天下の御台と備え天下無双に仰せられ、若殿は
若君と天下を仕り相譲るべし」と申し上げた。
その頃、西慶と申す唐人医がいて御屋敷へ節々出入りし御前様の御意に入った。これを談合して巻き込み、
大将分は大岡弥四郎(大賀弥四郎)が欠村に居り申し、松平新右衛門、江戸右衛門八、渡利村の小谷九郎左
衛門が大将にて申し合わせ、勝頼から知行の御判を取りかため申したのである。
時にその頃、(此処三字不知)城主は鳥井久兵衛で小谷もこの家来だった。朋輩に山田八蔵という者がいて、
ある時にこの者と九郎左衛門が取り分け入魂なれば「その方なども某どもと万事一味すれば、終いには欠綏
もせ申すべし」と申した。この時、山田八蔵は喜び「左様のことならば、何様にも一味仕り申すべし。ぜひ
ぜひ頼み入る」との由を誓言して申した。この時に九郎左衛門は山田八蔵を一味した。
逆心の企みは岡崎の城より南の方の吉良庄に旗百本ほどを並べて人数を見せかけて、甲州勢を城より北の足
助大樹寺口より引き入れ、城中では南表へさばき出る所を見て、北口より押し入り、城を固めて城外を放火
し、いよいよ甲州勢を入れ、三河を甲州へ取る企みであった。
この事を九郎左衛門が山田に話して同心となり、勝頼より2万石の御判を取り申したのである。
――『三河東泉記』
続き
捨て置けよ。新右衛門は退く者にあらず
この節、家康公は浜松におられ、天正3年には岡崎は三郎信康公、御守は小河の城主・石川備前守(数正)、
平岩七之助(親吉)などなり。家康様の御前・築山様は菅生の築山に御屋敷あり。信康公の御屋敷は城外の
北東に当たってあり、今の久右衛門町である。この節、御前築山様が御留主にて、殊に御仲も不和なりし。
その頃、甲州より口寄せ巫女数多来たりて、家中町村を廻って口寄せした。この時、勝頼(武田勝頼)より
巫女を騙して築山殿の御内にて下女に色々取らせて取り入り、下女より中間に取り入り、後には奥上﨟たち
までにいろいろの進物を致して取り入り、ついには御前様に御目見え申し上げてよく取り入り、折を見合わ
せて申し上げるには、
「もし御前様が今度勝頼と御一味なされば、(欠字)御前は天下の御台と備え天下無双に仰せられ、若殿は
若君と天下を仕り相譲るべし」と申し上げた。
その頃、西慶と申す唐人医がいて御屋敷へ節々出入りし御前様の御意に入った。これを談合して巻き込み、
大将分は大岡弥四郎(大賀弥四郎)が欠村に居り申し、松平新右衛門、江戸右衛門八、渡利村の小谷九郎左
衛門が大将にて申し合わせ、勝頼から知行の御判を取りかため申したのである。
時にその頃、(此処三字不知)城主は鳥井久兵衛で小谷もこの家来だった。朋輩に山田八蔵という者がいて、
ある時にこの者と九郎左衛門が取り分け入魂なれば「その方なども某どもと万事一味すれば、終いには欠綏
もせ申すべし」と申した。この時、山田八蔵は喜び「左様のことならば、何様にも一味仕り申すべし。ぜひ
ぜひ頼み入る」との由を誓言して申した。この時に九郎左衛門は山田八蔵を一味した。
逆心の企みは岡崎の城より南の方の吉良庄に旗百本ほどを並べて人数を見せかけて、甲州勢を城より北の足
助大樹寺口より引き入れ、城中では南表へさばき出る所を見て、北口より押し入り、城を固めて城外を放火
し、いよいよ甲州勢を入れ、三河を甲州へ取る企みであった。
この事を九郎左衛門が山田に話して同心となり、勝頼より2万石の御判を取り申したのである。
――『三河東泉記』
続き
捨て置けよ。新右衛門は退く者にあらず
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コメント
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この記事だと大賀弥四郎事件の黒幕は築山殿なのね
( 2021年06月19日 22:36 )
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