833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/07(水) 15:42:50.13 ID:t+nBfVAN
藤田能登守(信吉)は病気によって、信州諏訪で湯治をしたいと望み、執権の方々へ暇を請い、
江戸より信州善光寺へ行きそこで越年し、春になって諏訪で入湯した。
ところが三七日(21日)の後、腫気黄疸の症状が出て、煩悶セイ仲(持続的に起こる動悸)の
症状も加わった。それ故に、京へ上り養生を加えるべしとして、中山道を経て上ったが、
同国犀川と屋護原の間、鳥居峠の麓、奈良井にて、病は重篤に至り、医術応ぜず、
元和二年七月十四日に卒した。(五十九歳)
俗名藤田能登守従四位下平信吉、法名休昌院一叟源心居士。
奈良井の禅寺にこれを葬った。
嗣子無き故、今の水戸頼房卿の下に、私(著者)夏目軍八定房の兄に、吉江藤左衛門定景という
者があり、能登守は内々に彼を養子にしたいと考えていたのであるが、その事を未だ執権(幕府重職)に
伝えない内に卒去してしまった故に認められず、能登守の西方の領地は召し上げられ、家は断絶した。
(管窺武鑑)
藤田信吉の死について。これについては自害説もあるようで。
藤田能登守(信吉)は病気によって、信州諏訪で湯治をしたいと望み、執権の方々へ暇を請い、
江戸より信州善光寺へ行きそこで越年し、春になって諏訪で入湯した。
ところが三七日(21日)の後、腫気黄疸の症状が出て、煩悶セイ仲(持続的に起こる動悸)の
症状も加わった。それ故に、京へ上り養生を加えるべしとして、中山道を経て上ったが、
同国犀川と屋護原の間、鳥居峠の麓、奈良井にて、病は重篤に至り、医術応ぜず、
元和二年七月十四日に卒した。(五十九歳)
俗名藤田能登守従四位下平信吉、法名休昌院一叟源心居士。
奈良井の禅寺にこれを葬った。
嗣子無き故、今の水戸頼房卿の下に、私(著者)夏目軍八定房の兄に、吉江藤左衛門定景という
者があり、能登守は内々に彼を養子にしたいと考えていたのであるが、その事を未だ執権(幕府重職)に
伝えない内に卒去してしまった故に認められず、能登守の西方の領地は召し上げられ、家は断絶した。
(管窺武鑑)
藤田信吉の死について。これについては自害説もあるようで。
スポンサーサイト
コメント
人間七七四年 | URL | -
一般的には藤田信吉の墓所にもあるように讒言により改易
配流先の木曽で失意の中で自害して果てたという流れだけど
管窺武鑑では讒言はされたけど改易も流罪もされず
療養の為に諏訪へ行き
そこで悪化したので更に上洛しようという
あまりに無謀な旅路に一歩踏み出した所で倒れ
跡継ぎがおらず所領を召し上げられて断絶って流れなのか
家康は讒言なんかに踊らされないという意図があるのかなぁ
( 2021年07月07日 20:54 )
人間七七四年 | URL | -
上杉から家康に鞍替えして念願の関東の独立領主になったのに大阪の陣でケチが付き失意の中没した信吉
上杉から信吉らを追い出して上杉の大減封を招くも関ヶ原後は家康に気に入られた兼続
人生ままならないな
( 2021年07月07日 21:16 )
人間七七四年 | URL | -
ああ人生に涙あり
( 2021年07月07日 21:48 )
人間七七四年 | URL | -
この時代の湯治はどこが人気だったんだろう。
有馬か草津かなあ。
そういえば、草津温泉の湯畑そばに設置してある来訪者リストに「丹羽長秀、堀秀治、長尾為景..」とあったな。
( 2021年07月08日 15:37 )
人間七七四年 | URL | -
※4
江戸時代の温泉番付やと東西横綱が正に草津・有馬やったと思う
( 2021年07月08日 18:42 )
コメントの投稿