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秀吉からの和平の呼びかけについて

2021年07月13日 18:35

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/13(火) 17:47:39.63 ID:YdDzYbfJ
羽柴秀吉公は越後柏崎・妙楽寺の御坊をお頼みになり。木村弥一右衛門(吉清)を差し副え、上杉景勝公へ
和平についての御取扱を仰せ越された。

この妙楽寺は日蓮宗の智識であるため、景勝公も御懇になされ、御出陣の時に彼も具足を着て、
日蓮上人自筆の曼荼羅を差物にして供を仕り、武道も標準以上の巧者であり、合戦で斥候として
敵を見積もられた事も、二度三度とあった。

しかし、この秀吉からの和平の呼びかけについて、景勝公はこのように思し召された
「謙信公が切り従えられた国々の内、未だ五分の一も自分の手に属していない中、
現在天下に猛威を振るう秀吉と和平を結べば、それ以後、その国々を切り取ったとしても、
世間では景勝の鋭鋒のためとは言わず、秀吉の太刀影を以て。そのようなことが出来たのだと
評価されるであろう、」

そして秀吉方より使者が再三仰せ越されたのだが、その儀に応じなかったのであるが、
この年の九月上旬、また木村を以て仰せ越された。その内容は

 一、内々に申し入れていた通り、和平を是非御同意して頂きたい。もし疑わしく思し召されて
   いるのであれば、秀吉自信がそちらに罷り越してでもその疑いを解こう。無二に
   申し合わせたい心中である

として、熊野牛王に誓詞を認めて差し越された。

 二、和平が出来なくなれば、北国筋の働きはどうするのか。越中の佐々内蔵助(成政)は、
   信長公の厚恩を受けながら弔い合戦にも罷り上がらなかった。私が君敵の明智を誅伐
   したのだから、私に対しても一応の礼儀があるべきなのに、そのような事もなく、
   信長滅亡を却って悦び、柴田、滝川と言い合わせ、各々の居館に引き籠もり、私を
   非難すること、法外であり人倫の道ではない。であるので、去年正月、滝川を悉く
   仕詰め、長島一城に追い込んだ時、柴田が江州に討って出た故に、賤ヶ岳に馬を向け、
   一戦を遂げ勝利を得、直ぐに越前北ノ庄に追い詰め成敗したこと、これも去年四月である。
   偏に上を軽んじ、我が身の邪欲に引かれた逆心の不義は、天刑遁れ難く、あのようになったのだ。
   佐々も同罪であるので、成敗するのだが、その時に佐々が隣国を頼るとして、上杉家に対し
   御加勢を乞うてきても、御同心の無いように、一向に頼み入る。

この二ヶ条を申し来た事について。景勝公はこのように仰せに成った
「越中への加勢の事は、秀吉公より言われるまでもないことだ。去々年の夏、魚津城において
佐々成政の攻撃のため、私の家臣たちが自害したことについては、秀吉も聞き及んでいるだろう。
その弔い合戦のため、我々こそ早々に越中へ攻め寄せるべき所に、信州への出馬、国内での
新発田との戦い、そして今年、佐渡への働きも中途であり、遅々に及んだことは、心外の至である。

越中は謙信が切り取った国であるので、本来なら景勝の手柄によって切り従えたいものなのだが、
佐々の不義の様子を委しく仰せ越された以上、秀吉の働きを抑えるのもいかがなものか。

ではあるが、景勝が働きを止めてしまうと、「遂に越中へ手勢を遣わさず、秀吉に渡した」と
言われることも無念である。そこで今度、越中へ出馬し、越後家の弓矢を木村弥一右衛門に見物させ、
上方への土産の物語とするように。」

と仰せに成られた。

管窺武鑑

和平には消極的だが佐々成政に与しない姿勢を見せた、という事かと



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    面子 is 大事

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