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景勝公も御上洛然るべし

2021年07月18日 17:48

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/18(日) 13:30:08.25 ID:mTDifYH3
秀吉公は去年(天正十三年)、越中より落水までお越しになり、上杉景勝公と会見された。
その後も秀吉公より浅からず御心入あり、御和平の状態であるから、景勝公も御上洛然るべしと、
宿老衆が申し上げると、「尤もである」と思し召され、御上洛あるべき旨を、先立って仰せ入れられると、
秀吉公は悦ばれた。

天正十四年四月下旬、秀吉公より御礼のため、また木村弥一右衛門(吉清)を差し越された。この時も品々
御音物があった。

同五月十一日、景勝公は春日山を出発された、御供の人数、僅か五千足らずを召し連れられた。
これには御底意があった。木村弥一右衛門も御供した。秀吉公よりの、道中の御馳走は

一、越中は木村が請け取って、越後衆上下を賄い仕った。観世太夫、今春太夫を連れ、
  御宿ごとに、隔日に能を仕った。(尾山に於いては城主の前田又左衛門(利家)饗応)
二、加賀まで、石田治部少輔(三成)が御使に来た。
三、越前までは、増田右衛門尉(長盛)が御使に来た。
  付・北ノ庄にては堀久太郎(秀政)饗応、府中は木村常陸介(重茲)、敦賀は大谷刑部太夫(吉継)饗応
四、近江でも大谷は諸事御馳走した。その中でも大溝では、その城主が饗応した。

五月二十七日、洛陽(京都)本圀寺にお着きになり、その夜、秀吉公が忍んでお出でになった。
御礼の御盃を出すと、秀吉公は頻りに御辞退あったが、景勝公の御盃を戴き、直江(兼続)に御盃を下され、
その盃を無理に取り上げて召し上がられた。その他の衆をも召し出され、御盃を下された。
明日、聚楽に景勝公が御出になることを御約束された。そして今夜、景勝の旅館に秀吉公が忍んで
来られた事について口外しないようにと仰せ合わされ、御帰りの時、御次の庇門に、梅津宗賢が伺候
していたのを御覧になると

「これは川中島合戦の時、武田典厩(信繁)を討ったと聞く梅津宗賢であろう」

と言って銚子を乞い、御盃を下された。
諸人、これを不思議に思った。かの梅津は譜代の士であり、他国へ行ったこともなく、秀吉公が
見覚えているはずがないと、様々に沙汰されたのだが、これについて藤田能登守(信吉)が、
南詰宮圍に申し聞かせた事には

「秀吉公は、越後衆入洛の様子を御見物されるため、粟田口の町に御出になったと聞く。
上方には関東、北国の者も多くある。この方面を見知った者を御側に於いて、尋ね問うて
見置かれたのであろう。私の推量ではあるが、恐らく間違っていないはずだ。
奇妙不思議などというものは無い。理の本を吟味し、我心に落として、他のことを計るべきである。

秀吉公のこの事は、名誉であるとは言えない。そういった御志があるのを感じ、御大将の器に
応じていると誉める事こそ、正道である。」

と申された。

景勝公の在京中、秀吉公より御賄として木村弥一右衛門を付け置かれ、御馳走された。そして
秀吉公の御指図にて、景勝公は宰相に任じられ、直江は四品に叙し、藤田、安田を初め七人が
五位に叙し、七月に御帰国された。

管窺武鑑

上杉景勝の初上洛について。景勝のときにも秀吉はその宿舎に忍んで来るようなことやってたのか。



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    さすが天下の人ったらし、たらすたらす。連日の接待攻めならぬ接待責めでクタクタで、やっと一息と思ったトコロからの夜のお忍び面会。緩みきった心の隙間にヌメり込んでくるようなヤリ方、女なら確実に墜ちるだろ。秀吉が衆道に長けていたら確実に姦られてたな景勝。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ホットリーディングみたいなことやってたんだなあ

  3. 人間七七四年 | URL | -

    成る程、ぬらりひょんが総大将と称される所以

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